エルディス編

 はらはらと、花びらが、花々が宙を舞う。
 岩石の絶壁。
 先は、叩きつける海。
 そこに――赤、青、白、黒、黄、そして桃、橙。
 色とりどりの花々が落ち、吸い込まれていく。
「……」
 フードを被った人が、花の落ち行く先を見つめている。
 目深に被っているせいか、顔も、表情も見えない。
 伸ばされた手がそのままなので、おそらく、今花々を海に放り投げたのはこの人だろう。
 色濃い花、薄い花。まだ新しく、葉も生き生きした花。
「……」
 今一歩進めば、落ちようか?
 一段と叩きつける海水の音が大きくなって、人の元にまで水しぶきを飛ばす。
 手持ちの花が尽きたのだろう。その人は、海に背を向けて歩き出した。
 祈るように海に向かっていた事、伝えたい事があったこと。
 すべて――飲み込んで。

 花を海に放り投げた人が森の先の絶壁から遠のくのを、別の場所で二人の人間が見ていた――

「エアリアス・リーグラレル・リロディルク」
 言葉に、ふっと森を歩いていたリールの足が止まる。
「お前の、名だな」
 現れた人影に、睨みつけるリール。
「なぜ黙っている?」
 これくらいも、調べられないと思っていたか?
 たった一人、リヴァロだけを連れたエルディス王。カルバードが笑う。
 リールの正面に立って、見据える国王。
 見下ろされたリールは、一歩も引かない。
「――自身の持つ“すべて”と引き換えに、多大な犠牲と引き換えに――貴方に不死を、不老不死を授けよう――エルディス国王?」
 ぞくりと、背筋が冷える。森が凍りつく。
 今のリールに浮かんでいるのは、あの時、血溜まりの中の肉片を見つめた笑みと同じ。
「……お前は誰だ」
 底なしの何かを垣間見て、エルディスの王は認識する。敵となるか、味方となるか。食われるか、飲み込まれるか。それとも――
「私は私。違うのは、人が私を誰と認識するか」
「“エアリー・リール”」
「何か、エルディス国王」

※ ※ ※

「はいお待ちどう!」
「どうも~」
 にぎやかに沸き立つ港町ミガユール。新鮮な魚介の料理が売りの宿の食堂では、威勢のいい店主と女将の切り盛りの元、にぎわっていた。
 リールは、沈黙した国王を残してここにいる。あの時の表情は影も形もない。
 時間は、昼の時間には遅い。けれど昼間の忙しさの余韻に浸る中。
 おすすめといわれた魚を揚げた料理に湯気が立ち、そえられたスープも十分に温かい。
「いただきま~す!」
「ここにいたか」
「――……王?」
 一瞬、食事の邪魔をされたリールは殺気だった視線を投げかける。
「おやいらっしゃい! 久しぶりだね!」
 王の姿に気がついた女将がやってくる。
「ぁあ、今日も」
「わかってるよ! いつものだね!」
 手馴れている……
 呆然と、リールがそんなことを思っていると勝手に目の前に腰掛けている。
「……」
「どうした? 食べないのか?」
 さもおかしそうに言われる。
 食欲はそがれた? はずもない。
 さくさくと手を動かすリールを、エルディスの国王は楽しそうに眺めている。
 一口食べて気に入ったらしく、リールの手が忙しく動く――
「おいしいだろう? ここはおすすめだ」
「……」
 ぴたっと、リールの手が止まった。
 視線が訴えている。「こんな所に、こんな真っ昼間に、“いつまでも”いてもいいのかしら?」
「心配ない。――数年分働いてくれる奴がいるからな」
 それ以上、リールは何も言わなかった。まるで王の答えは聞こえないというように。
「おまちどう!」
 再び女将がやってきたのは、大皿。数人分はある。
 リヴァロに毒見を済まさせた王が食にありつく頃には、リールは三品目を注文していた。

 食事中が無言なのは、この家族の約束なのかもしれない。
 ざわめき立つ食堂の中、壁際の一席ではもくもくと料理が平らげられている。
 王は本当になれたもので、今が旬の魚料理を注文している。
 だが静かな分、エルディスの気候や、海の様子を聞くには都合がよかった。勝手に頭の上で話が飛び交っているから。
「ごちそうさま」
「おいしかったかい?」
 コップに水を注ぎ飲んでいると、席に女将がやってきていた。そしてリールの皿が空になっているのを見たのか声をかけてくる。
「――はい、とても」
「そうかいそうかい」
 嬉しそうに女将が顔をほころばせて、エルディス王、カルバードに声をかける。
「ずいぶんと可愛い子じゃないか、どうしたんだい? いるのは息子じゃなかったのかい?」
「その嫁だ」
 リールが噴出した。
「それはまあおめでたい! 式はいつだい!?」
「さぁ? ……幾分、息子がまだ、な」
「なんだい!? こんなに可愛い子を放っておくのかい?」
「そんなものだ」
 その息子に、数週間は城を出られなくなるくらい政務を押し付けた父親の言い分とは思えない。
「ところで、上に部屋を借りたいのだが」
「ぁあ余っているよ! それに、めでたい事だ! 今日はおごるよ」
「それはふとっぱらだな」
「あっはっは! 出てるのは腹だけじゃないよ?」
 茶目っ気たっぷりにそう言って笑う。女将は別の客の呼び声に誘われて去っていった。
「……大丈夫か?」
 盛大にむせたリールは、震える手で水差しの水を飲み干していた。
 水差しごと。
ダン!
 叩き付けた勢いで壊れそうだ。
「……王様」
 限りなく低い声で、怒りを押し殺したようにリールが言う。
「ここではバートだ」
「ではバート様」
「なんだ」
「そんなこと触れまわしに来たんですか……?」
 虚を付かれたように国王が手を止める。
 こんどは、リヴァロが声を抑えて笑い出した。
「――誤りではなかろう?」
 この、たぬき爺。ってか狐?
 リールは毒づいた。
「わしには今の今まで何も言ってこない息子のほうが不思議だが?」
 あれから、エルディスに来たリールの扱いは“王子の客人”である。それ以上でも以下でもない。
 毎日忙しいのはカイル一人で、暇を持て余すリールは城を抜け出してきた。――もちろん。セイジュと言う監視役を撒いて。
 まぁ、元々セイジュが真面目に仕事するはずもないし。
「……知りません」
 ここ数日、顔も見ていないような気も。あえて、避けたようで、避けられた?
「そうか――少し、聞きたいことがあるんだが」
「……」
 これが本題だろうか? リールはため息をついた。

 ここではなんだ、と、王とリールは食堂の上の宿となっている部屋の一室に移動した。
 促されるままに寝台に腰を下ろして、王を見上げる。
「何か?」
「両の親は健在か?」
「……なぜ、そのような事を?」
 一段と、低くなるリールの声。
 その変化を、王はそう重要視しなかった。
「なぜ? 不思議な事を聞くものだ。仮に――いや現実に息子の嫁の親に挨拶したいというのが、そんなにおかしいことか?」
 リールは、あんぐりと開いた口を、閉じた。
 とりあえず、「なんでそんな話になっているんだ」という疑問は横に置いた。
 “そんなことのために?”
 王は、静かに待っていた。リールが言葉をつむぐのを。
 しばらく、二人とも何も言わない。
じゃ――
「「!?」」
 開いていた窓から、風が吹きつける。カーテンがはためいて、動かされる。
パタン
 さっと立ち上がった王が開いていた窓を閉める。
 その後ろから、声がした。
「……死にました」
「そう、か」
 はっとしたように、王の声が沈む。
「ならば、墓に連れて行っては」
「墓はありません」
「? 何?」
 もう一度、王はリールに近づく。だがそのリールの声は、王を拒絶しているようだった。
「シャフィアラでは、罪人の死体は海に捨てられます」
 “罪人”
 その言葉を、どう受け取ったのだろうか?
「一生、漂い続けろ、と」
「……」
 下食堂の喧騒が嘘のように、この部屋には届かない。この部屋に音が届かないという事は、この部屋の音も外には聞こえない。
 だけど、この部屋の中はこんなにも静かで、まるで沈黙に愛されたようで。
「……よかったのかもしれないな」
「は?」
「海に行けば、逢える」
 いつでも。
「っそんなことっ! あるはずないでしょう!?」
 何も知らないくせに――
「大陸を越えて、見守ってくれる」
 この世に海がある限り。
「――……」
 うつむいて、沈黙したリールの隣にカルバード王が腰掛ける。
 少しだけ顔を上げたリールの目に、映った人。
 過去が重なる――
「おとう、さん……?」
「なんだ、リール?」
 その温かい目が、見つめる。あの時の父と同じ、浮かんでいるのが。
「お父さん……」
 声も体も震えている。伸ばされた手が頭を撫でる。
 もう、置いて行かないで――その服にしがみ付いた。
「ぇ……っ……ふっ……」
 寝台と小さなタンスとランプの置かれた簡素な部屋に、すすり泣きが響いた。

 ねぇお父さん、お母さん。あのね。
 伝えたい事が、いっぱいあるんだよ――

 壁を背にして、扉の真横。リヴァロが立っていた。それは数分間前からとも数時間前からとも言える。
 閉じられていた目が、ゆっくりと開かれる。それは、階段を上ってくる足音が聞こえたから。
「……」
 全力で走ってきたのか、その方の格好はよれよれだった。いつもあんなにきっちりとしているのが、むしろ嘘くさく思えてくるくらい。
 カイルは一礼したリヴァロには目もくれず、そのリヴァロが立っている壁のすぐ隣の扉を凝視している。
 その人は少しだけ息を整えて、部屋の中に入って行った。
「「………」」
 残された二人は、小さなため息と嘆息を合わせていた。

 この部屋に向かってくる足音も、勝手に入ってくる気配も感じていた。
「――遅かったな」
「お蔭様で」
 機嫌が悪い、な。
「そんなに独占はしていないだろう?」
 あのあと泣きつかれて眠ってしまったリールを、寝台に乗せて寝かせている。
 さすがに、もう添い寝が必要な歳でもあるまい。ただ横に座っていた。
 だがそれすらも気に入らないらしい。――そこまで、思っていながら
「もとより父親に怒るのは筋違いだろう?」
 楽しそうに笑って、国王は立ち上がる。
 無言で睨んでくる息子の肩に手を置いて、国王は部屋をあとにした。

 ほとんど音なく閉じられた扉。
「……」
「?」
 かすれるような、声が聞こえた。それは寝言か。
「リール」
 いつ、目覚める?

 後ろ手に扉を閉じれば、頭を垂れた男が二人いる。一人は、自分の護衛で、一人は息子の。
「世話をかけるな」
「そのようなことは」
「頼んだぞ」
 そう言って、国王は廊下を後にする。
 去り行く背を見送って、レランはもう一度頭を下げた。

 ふっと、目が覚めた。
 まるで誰かに呼ばれたようで、呼んでいるようで。
「――夢を見たわ」
「何を?」
「よく覚えていない」
 “今”がこのまま続いていくんだと、信じて疑わなかったあの日。
 本当は、確実に別れの時間がやってきていたのに。
 自分の背が、髪が伸びていくだけ、時もすぎていたのに。
 あの頃は、幸せだった――のだろうか?
「城はどうだ?」
「別に」
 これと言って何も。
「「………」」
 会話が続かない。こんなのは初めてだった。
 何も言わない事が、言わなくても伝わっていて、わかっていたはずだった。
 でも、それはそれ以上進むのを拒んでいたから。それ以上踏み込むことがなかったから、できたことだった。
 手を取ったことが何を意味していたのか、知っているでしょう?
「……一所(ひとところ)に、留まるのは苦手なの」
 その場にいることは、いつかくる別れの時間を迎える事だから。
 いつ崩れるかわからないほど不確かな時間だから。
 体を起こして、膝を抱いた。
 あんなに簡単に、父と母がいなくなると思わなかった。
 あんなに簡単に、消えていなくなると思わなかった。
 だから、変わらぬと信じている毎日が来る日常(それ)を捨てた――
 あそこにいたのは、知識を得るには丁度よかったから。それだけ。
 置いていかれるのも、失うのも、もう嫌――
 だから、逃げてきたのだろうか?

「先はわからない」
 ふっと、顔を上げてカイルを見た。
「だけど、消えていなくなったりしないから」
「私は、何もしないわよ?」
 不死の術を使うエアリアスにはならないし、まして“王妃”としてなんて。
「それでいい」
「?」
「どうせ、もとより籠に収まる女なら歯牙にもかけない」
「それ、誰に言ってるの?」
 前の“結婚相手”は、飛んで行った。
「好きなようにしていていい。――ただ、帰ってきてくれるなら」
「馬鹿じゃないの?」
「不満か?」
「……」
 それがないから、困っているんじゃないの。
「リール?」
「私は―――のよ」
 声がとても小さくて、聞こえなかった。
「なんだ?」
「なんでも」
 この時、もっと問い詰めておけば、未来は変わっただろうか?
 まるでなんてことないように聞こえていたこの言葉は、のちに思い出す事になる。

「ずっととは言わない。ただ、昔と変わらぬ幸せを訪れさせるから」
「なによ、それ」
 少しだけ笑った。
 幸せだったのだろう、か? 父がいつも帰ってくること、母が迎えてくれる事。
 あの森で、やわらかい毛に包み込まれるように眠りについたこと。
 もう来ないけれど、でも。
 他に幸せを感じる事ができるのだろうか? ――エルディス(ここ)で。

「だから、共に生きよう」

 この世界で。

 断る理由が、どこにあるのよ?

 その日が来るのを、人々が待っていた。
 本当は二度目であると知っていながら。祝福を贈った。
 惜しみない祝いの言葉、喜びを受けて、空が輝いた。

「ねぇ、ドレスはどう?」
「王妃様……」
「まぁぴったり!」
 動きにくいと言うのが、リールの感想だった。しかしどこを見ているのか、王妃も侍女達も絶賛している。
 なんの色にも混ざらない、透き通るような白のドレス。
 婚礼衣装の試し着だというのに、すでにリールはぐったりしていた。

 あのあと王に結婚の意を伝えると、待っていたと言うように準備に借り出される。
 いつの間にか書かれていた招待状は山のように送り出され、祝いの品が届く届く。
 服の採寸に始まって、花嫁と花婿は婚約の儀の式礼、作法を叩き込まれる。二度目のカイルはいいとして、リールはシャフィアラとの差異に戸惑った。
 基本の振る舞いはいいとしても、やはり細部は異なる。
 まぁ右から歩き出すか、左かの違いのようなものだが。
 ここ数週間はそれに加えて清め、食事の内容の制限など、いったい何がしたいのか謎なことばかりだった。
 しかしそれも落ち着いて――明日の婚儀のドレスの試着をする。もう準備は万端と言うことろだ。
 裾や丈、縫い取りに不備がないか入念に見られ、明日の準備が終わる。

「まぁまぁまあ! 明日だなんて!!」
 王妃が、手を立ていて喜んでいる。
「はぁ……」
「さ、しっかりして頂戴! 明日は領主達もいらっしゃいますし、エルディスの王家に嫁いだ娘の無様な姿は見せられませんのよ?」
「……はい」
 とりあえずここ数週間でわかったのは、王妃には逆らわなければ事は穏便に済む。
「では、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 ドレスを持った人々が部屋を去っていく。もう夜も遅い。あとは、眠るだけ。
「………」
 寝台に入る気にはなれなかった。窓際に進んで、ガラスに手をつく。
「明日、か」
 眠りのための寝台は、使われなかった。

 そして朝が来る。
 とても、白い朝だった。

「王子様!」
「無粋ですよ!? 控えなさい!」
「待て――どうした?」
 自分の支度を手伝っていた侍女が怒るのをいさめたのは、突然部屋に入ってきた侍女がリールの支度をしている者だったからか。
「そっそれが、あの方が――」
 これまでは“お客様”だったリールの呼び方が“あの方”に変わったのはいつだろうか?
「リールが?」
「部屋にいらっしゃらなくて! しかも昨日の夜、部屋で眠られた様子がないのです!」
 自分の支度もそのままに、走り出した。

 どこに――行った?
 まさかもう逃げはしないだろうが。

「王子!」
 一足先に様子を聞いていたレランが、回廊を走るカイルを呼ぶ。
「レラン、リールはどこだ?」
 それ以外の、情報はいらない。
「東の庭です。――木の上に」
「木?」
 エルディス(ここ)はシャフィアラとはまるで違う。
 リールには知り合いも、肉親もいない――注意していたつもりだった。
 旅をしていたこれまでと違って、日々必ず共にいられるわけじゃなかったから。

 横に広がるシャフィアラの木々と違って、エルディスの木々は背がとても高くなる。
 東の庭のほぼ真ん中にある木の、一番初めに枝分かれしている幹。そこに、見える――
「リール!」
 びくっと、木の幹の間に収まっていたリールの体が震える。
「――来い」
 半ば強制的に言うと、開いていた腕の中に落ちてくる。
「どうした?」
 走って火照った体に、冷えたリールが心地よい。
「ラーリ様が……」
「ラビリンス王が?」
 驚いて問い返す。かすれていた声に問いかけても、何も言わない。
「――まるで、私が私でなくなっていくような気がする」
「……リール?」
 これがなんだかわからない。でも、怖い。
 まるで人形のように着飾られていくのが。人の望む姿の皮を被らなければならない時間が。
 自分が、崩されていく。
 これまで、どうしていた?
 だって、もう。あの場所にラーリ様はいない。
 ぎゅっと、カイルはリールを引き寄せた。頭を包み込むように抱く。
「聞こえるか?」
「……?」
 心音が、聞こえる。とても、とても、
「早いわね」
「そうだろうな」
「……緊張してるの?」
「他に何がある?」
 大真面目にカイルが言うので、リールは噴出した。
「笑うな」
「笑えるわよ」
 抱き寄せられた腕の中で、リールは体を曲げて笑う。

 誰か一人だけでいいから――傍にいてくれる。

 一向に笑うことをやめないリールを、カイルはさらに強く抱きしめた。
「ちょっ苦し……」
「ごほん」
「「――」」
 咳払いに二人が同時に振り向いた。リールはさっとカイルの腕から逃げ出したが、その腰には逃がすまいと腕が回されている。
 侍女にもう時間がないのです! と泣きつかれた国王は、その二人の様子を見てあきれ返った。
 何事かと思えば、なんてことない。これからいくらでも存分に愛を語っていればいいだろうに。“今”でなくて。
「お前達、別に邪魔をする気はないが、そういう事は儀が終わってから存分にやれ」
 とにかく、時間に遅れるな。

 儀は滞りなく終わった。

 二つの影が広い回廊を歩いていた。
 光に照らされた影はとても白く、影と言うには相応しくないかもしれない。
 その二人の会話が、少しだけ聞こえる――
 どうやら、あまり穏やかでない雰囲気だった。
「……いつ」
「さぁ、いつだったか?」
 よし殴ろうと、リールは心が決めるより前に体が動いた。
 ――が。
「王子妃様!」
「――は?」
 目の前に、走ってきて例をとる兵士。のせいで行動が止まる。
 “目の前”に来た兵士に。
「……何、その。破って捨てたくなるような敬称」
「慣れろ」
 ぎろりと、リールはカイルを睨みつけた。
「あの……」
「なによ」
「なんだ。早く本題に入れ」
「はっ! 祝いの挨拶に来ている方々のうち、どの方をお通し致しますか?」
「社交辞令?」
「そうだな」
「面倒」
「そんなことおっしゃらずに!?」
「なんで私が関係あるのよ。大体、全員連れてくればいいでしょう?」
「全員!? ですか?」
「?」
 何をそんなに驚いているのよ?
「畏まりました」
「ちょっ」
 リールの疑問は無視して、兵士が去っていく。
「くくく……」
 何かに耐え切れないというように、カイルが笑い出した。
「何笑ってるのよ」
「いや、すぐにわかる」
「は?」

「――ちょっと」
「なんだ」
「何よ、これ」
「挨拶だろう?」
「いったい、いつまで!」
 正式な謁見の間よりは少し小さい部屋(と呼ぶのも間違いだ)の中。高い段の上に腰掛けたカイルとリール(今日の主役)。
 もちろん、なんのための挨拶って祝辞でしょ。
「挨拶が長いのはしかたないだろう?」
「それは、わかっているわよ。そ・れ・は・ね!」
 リールが言いたいことは、いったい何百と言う人間がやってくるんだという事だ。
 さっきから列が途絶えることがない。今はほんの少しだけ用意させた休憩。
「さっき、自分で言っただろう?」
「なんの話?」
 王家の婚礼は国を上げての一大事だ。それが世継ぎであればなおさら。
 その祝いに、一言お祝いを述べようと貴族や民がやってくる。今日愛を誓った二人を祝福するために。
 しかし、王家に嫁ぐ姫達だ。自身の婚儀に民など見たくないというものたちばかりである。
 王都にやってきた民達は、城の中に入ることはできず、遠めに姿を望むだけだった。――これまでは。
 さて、ここでさっきの会話を思い出してほしい。
 リールは、なんと言っただろうか?
「あ~~ん~た~~ねぇ~」
「俺は政務の時間が減ればそれでいい」
 婚儀の最中政務を押し付けるほど、野暮な親はいない?
「おいっ待て!? 本気で首を絞めにかかるな!?」
「自業自得でしょう!!?」
「ぁのう……」
 これは止めるべきなのか、夫婦喧嘩(?)には関わらないほうが身のためなのか、よくわかっていない兵士が声をかける。
「だから何!?」
「なんだ」
「次の方をお通ししても、宜しいですか?」
「また!?」
「明日までかかるだろうな」
 ぼそっと呟かれたカイルの言葉に、リールは頭を抱えた。
 なんでそんなに人が来るのよ!!
 すでに別室には、今日贈られた贈り物だけでも山になっているというのに。

 新手の嫌がらせのようだった(リールにとって)。

 外の者に部屋に入るように促す鐘がなる。
 兵士に言われたので、とりあえず、席に座りなおしたリール。
 服は儀の時と同じ白のドレスで、ヒールも高い。
 こんなものこんなに長い時間着ていることですら全くもってないのに、その上、口上の長い貴族の話を聞いていなきゃならないわけ?

 リールは知らなかったが、挨拶に並んだ人々のうち、最初に来た者達は皆エルディスの領土の領主たちだった。
 治める民達よりも先に、我先にと出世を狙う者達でもある。
 時代の王の妃に、今からでもいい印象を持たせておこうと言うのは、納得できなくもない。
 相手がリールでなければ。
 当面の問題は、領主達に相手を選ぶ能力がないことにある。

 だが、これからは少しだけ変わった。
 喜びを伝えに、末永く、と。結婚した二人を前にして、当たり前におこなわれる祝福を、人々が贈る。
 祝い事(こんなこと)がなければ、城に足を踏み入れることもない民、城を離れたはるか遠くの地に住む民。普段は海の上で暮らす民。
 みんな、祝福を贈る――

 しかし、だ。人間には限度と言う物がある。
「あきた……」
「そう言うな」
「無理」
 次の物が来るまでの一時、後ろに控えているレランには聞こえるかもしれないが、他のものにはほとんど、何も聞こえない。
 例え気がついても、おそらくどちらかが相手に耳打ちをしている図にしか見えない。それはもう、独身者には目の毒にしかならない光景。である。 もったいぶって待たせるのが趣味の領主とは違う。
 一言、二言話すのが精一杯な民達はひっきりなしにやってくる。あるものは農作物を、あるものは花を。あるものは自分の腕から生まれた品々を、持って。
 それこそ、喜びが――多すぎてリールの手から溢れたころ、その人は来た。
 鐘が鳴る。
 入ってきた人物に、こそこそと話していたリールとカイルはほとんど注意を払わなかった。
「――ここで、私が名乗らなければ、不敬罪に当たるでしょうが。それでもあえて、名乗らないでおきたいものです。お覚えですか?」
 私を。
「は?」
 低く、よく通る声にリールが目の前(下)の人物を見て――目を見開いた。
「ラバリエ――さん?」
「呼び捨てで結構です、王子妃殿下」
 それ、言いすぎ。
「久しぶり! で、なんで?」
 身を乗り出したリールに、あれからまた貫禄をつけたラバリエが笑う。
「またとない祝い事の知らせは、あっという間に広まりますが。花嫁がオレンジ色の髪をしていると聞き、足を運びました」
「それだけのために?」
 私かどうかなんて、わからないわよ?
「何を言われますか、当の本人が」
 ただ、足が向いた。あの時の少女と同じ髪の色をした娘なら、見てみたかったから。
 ほんの一握りの、可能性。
「ははは、まぁそうね。で、どうだったのよ? あのあと?」
 あの時、セラセニアの結婚式に出ていれば、あの船に乗らなければ、今ここにいることはなかったのだろうか?
 今と違う未来があったのか。
 それとも、それでもこの場で、この時、カイルの隣に座っていたのか?
 ラバリエは、一瞬何か不吉なものでも飲み込んだように顔をしかめた。
 まるで、思い出したくないかのように。
「……花嫁が悪酔いしまして……」
「最悪ね」
「返す言葉もないと言いますか」
 一口では語りつくせない。
「しかし、本当にお目にかかれるとは思いませんでした」
「はぁ?」
 「祝い事であるから、王子様もお相手も人目に姿は現すでしょう! だから拝見しに行くのよ!!」と言った、村娘を思い出す。
 しかし、だ。
「普通、門前払いを食らうはずなので、よくて遠めに拝見……」
 リールが眉をひそめると同時に、カイルが噴出した。ついで、笑い出す。
 なんとなくではあるが、“事情”を察している兵士達の目も泳ぎ気味だった。
ガスッ
「……リール?」
 ひどく鈍い音だが?
「今はどうしてるの?」
 カイルのわき腹に肘鉄を食らわせて、そして満面の笑みでリール。
「前と特に変わりないものです。用兵家業をしながら転々としております」
「そう」
「お幸せに」
「……ありがとう」
 知り合いにそんな事言われると嬉しくもくすぐったくなる。
 それを知ってか知らずか、ラバリエはそれだけ言って去って行った。
 なんでも、これからおこなわれる立食パーティに出るらしい。

「誰だ?」
「少し前――“あのあと”、知り合った人よ」
「――そうか」
 空白の時間。
「まだいるのか」
「まだいるわよ?」
 カイルの心中は穏やかでなかった。

 それからまた、少しだけ喜びをそのまま受け入れていた時間――
 それから、数十人を見送った。またまたリールがあきてきた頃に入ってきたのは、若い恋人かと思えば夫婦のようだった。
 それが誰だか、見ればわかった。
 うつむいたまま、顔を上げない。そのまま頭を下げた状態で、緊張してうまく言えない言葉を綴ろうと、奮闘していた。
「――顔を上げて頂戴“セラセニア”。あなたに敬語で話されると調子が狂うわ」
「?」
 名を呼ばれたことに疑問をもったセラセニアは、しかも聞いた事のある声の正体見たさに、今の家で徹底的に教え込まれた作法を横に置いた。
「……!? ぁああーー!! リール!」
「リール?」
 夫が言う。
「リールって、もしかしてあれか?」
「そうよ! 私をネイまで連れてきてくれたうちの一人のドケチ女よ!」
「……」
 何がかわいそうって、この国の兵士では?
 だって、リールの認識を改めないといけないから。
「(誰が、なんですって?)」
 かろうじて、体裁と言うものを思い出したリールは頬を引きつらせるだけに留めた。
 しかし、不穏な空気を察したのは悲しいかなレランだけだ。
「ひどいのよ! 閉じ込められるし! 頂戴っていったのにくれないし!」
 誰が閉じ込めただ。あれは、非常事態だ。第一、誰がくれてやるものか。
「しかもすぐ行っちゃうし! どうして式に出てくれなかったのよ!」
 “式”と言う言葉に、セラセニアの隣にいた夫の行動が止まる。何かを思い出したらしい。
「……覚えてないの?」
「なんのこと?」
 首をかしげたセラセニア。その夫は、正気に帰って、ふと今の自分の立場を思い出した。
「まぁ、そうでしょうねぇ」
「なんなのよ!」
「――セラ?」
「? なあに?」
 リールに食って掛かったセラセニアが、夫の切羽詰った声に引き戻される。
 セラセニアの肩に手をおいて、真剣な表情で男が言う。
「本当はこんなこと確かめたくもないんだけど、僕達は何をしに来たんだっけ?」
「何を言っているのよ? ネイとオルの領主として――」
 そこまで言って、セラセニアも“異変”に気がついた。
「エルディスの、王子の婚儀のご挨拶に……」
「そうだったよね」
「そうだったわ」
「ならやっぱり、あのやっぱりここは確認しないといけないと思うんだけど、彼女――あちらの方はセラの知り合いなのかい?」
 声からして、顔からして誤りであってほしいと言うようだ。
「……」
 セラセニアは、再び振り返った。後ろで夫が、頼むから“これ以上”事を荒げないでくれと祈っている。
「あなたが王子妃なの!? どうやったのよ!?」
 祈りは届かない。
「――は?」
 対して、リールはまぬけにも聞き返した。もう今更だ、い・ま・さ・ら。
 なんで入ったときに気がつかない――セラセニアだものねぇ。
「あ~~そうね。……成り行き?」
 カイルが椅子からずり落ちそうになったのは、どうやら誰も気がつかなかったらしい。
 レランはもう首を振った。疲労した頭をこれ以上酷使させないでほしかった。
「成り行きでできるはずないでしょう!」
 あ、まともな意見が出た。
「説明しろと? だいたい、そっちこそどうなのよ?」
「え? 私?」
 途端に、視界が桃色に染まった。
「それは~~その~」
「……」
 リールは、賢明にも黙した。
「だって、彼がすばらししすぎるから」
「セラ……」
 男はがっくりと肩を落とし、こめかみを押さえている。
「何!? どうして! あなたは私のこと愛していないの!?」
「そうじゃなくてね……」
 ぁあ、王子妃様の後ろが暗い。黒い。暗雲が。
 “そうだったわね。”
 ふと見た、王子妃様の口が動く。
 “こういう奴だったわ――”
「……」
 寒い。
「聞いているの!?」
「ぅわ!?」
 セラセニアが、自分より高い夫の袖をつかみ、引っ張る。
「――そういえば、ラバリエさんが来ていたわよ」
「ラバリエ!!? どこに!」
 しかし、セラセニアには食いついた。格好の餌だ。
「さぁ、さっきここに来たけど――これから祝杯でもあげるんじゃないの?」
「逃がさないわ! 行くわよあなた!」
「へ? なななにっ!?」
 結局名前を言わなかった男を引きずって、セラセニアは部屋を出て行く。遠くで、ちょっと待てーー謝罪をーーと叫んでいるので、あとで文書でもなんでもくるだろう。
 ラーバーーリーエー! 逃がさないわよーー!!
 かすかに、そんな誓いが聞こえ、その声とばたばたとした足音が遠ざかっていく。
「静かね」
 しみじみと、リールが言う。
 さっきから下を向いていたカイルは、どうやら笑っているようだった。
「……彼は生贄か?」
「さぁ? 専属シェフにでもするんじゃない?」
「は?」
 彼は、用兵だろう?
 しかしカイルの問いは、次に入ってきた男に消された。
「やぁやぁやあリーディール! 元気だったかい?」
「……アズラル?」
 重いはずの扉を自ら左右に開いて、颯爽と入ってくる男。いっそ胡散臭い。
 後ろからイーザス、セナとユアが続く。
「何しに来たのよ?」
「なぁ!? ひどいリーディール……どうして! 婚儀の事をおしえてくれなかったのかい!?」
 よよよと、泣き崩れる大人。
「面倒くさそうだったから(むしろ自分で嗅ぎ付けそうだったから)」
「なんとっ!? 確かに君のことは闇市で噂に聞いたよ。それで来たんだが」
「……これに聞いたんじゃないの?」
 リールは、カイルを指差した。
 しかしアズラルは、肩をすくめただけだった。
「誰も敵に塩は送らないだろう?」
「は?」
「シャフィアラの王子も知らないだろう?」
「――ぁあ、なるほど」
 いくらなんでも情報操作を徹底させすぎだろう。
「いずれ耳に入る」
 しれっとカイルは言ってのけた。
「でだリーディール」
「何よっ?」
 リールの声が裏返ったのは、気がつけばすぐ傍までセナとユアが来ていたことだ。
「そんなに“似合わない服”を、いつまで着ているのかな?」
「「さぁ行きましょう! リーディール様」」
「え゛?」
 あっという間に両腕をつかまれて、セナとユアに連行されていった。
 ガタッと兵士に緊張が走る。カイルはそれを制して、眼下の男を見れば――?
「さすがイーザス、水が変わってもお前の腕前は変わらん」
「恐れ入ります」
 優雅に、お茶の時間。しかもいつの間にか運び込んだテーブル、椅子。ティーセット。
 いつの間に……?
 兵士達が思い浮かべせたもっともな疑問を無視して、カイルはアズラルに問いかける。
「どのくらいかかる?」
「半刻程度か」
「ならばそれまで休憩とする」
 カイルは、自分もお茶を頼もうとして――
「茶の準備ならここにあるが?」
「――頂こう」

「まったくもうリーディール様!」
「アズラル様はともかく! 婚儀の事を私たちにおしえないなんて!」
「「許しがたしですわよ!」」
「ごめんなさい」
 ここは下手に刺激しないほうが得策だ、檻につかまった猛獣のごとく扱おう。
「しかもなんですか! その似合わないドレス!!」
 お気に召さないらしい。
「同感よ」
 それに関しては。
「ちゃんとおしえてくだされば……」
「「アズラル様が構想に五年! 制作に五年かけたこのドレスが!!」」
「そんなにかけるな!!」
「何をおっしゃいますか。アズラル様が無条件で御作りになるのはリーディール様のお着物だけですのよ」
「そうですわ。なのに、私たちに手紙の一つよこさないなんて!」
「そのドレスも着ないなんて!」
「「裏切り行為ですわ!!」」
 そこにアズラルがいないことが前提らしい。
 怒り狂ったままの双子と、やってきたのは客室。……いつの間に王城の客の地位を得たのよ?

 兵士の手前、レランに毒見をさせて飲んだお茶は、シャフィアラでローゼリアリマと名乗った少女の淹れたものに近い感じがした。
「なつかしいか?」
「いや」
 しかしアズラルの問を、カイルは否定した。
「まぁいい」
 腕を組みなおしたアズラルは、カイルを見ていた。しかしカイルは、目を合わせようともしない。
 奇妙な沈黙だった。休憩のはずが休憩にもならない兵士達がかわいそうだった。
「――ぁ」
「どうした? イーザス」
 執事のほんのわずかな呟きでさえ、聞こえてしまう。
「いえ、別に」
「? なんだ」
 この執事が、言葉を濁すのも珍しい。
「――リーディール様に、またお茶の調合をしていただくことを依頼すべきか、悩んでおります」
「頼めばよかろう?」
「ですが……」
「そんな暇がなければ断るさ。誰に何を言われようと」
「……」
 まるで、カイルがリールの行動を制限すると予言するように。
「止まり木は“止まり”木であって、永住する場所じゃない」
 いくら、引きとめようとも。
「それは体験談か?」
「――人の親切は素直に受け取っておく事だな」
「あいにくだが押し売りは受けない」
 何もないのに、カップの中に注がれたお茶の水面に波紋が浮かぶ。
 再び、とても暗くてどろどろした感じの沈黙が下りる。誰もが願ったのは、王子妃の再来?
ガァァン!
 と、そこへ、ひどく怒りのこもったやり方で扉を蹴破る音がする。ずいぶんと派手な登場をしてくれると、カイルが目をやって、驚いた。
 そこにいたのは、エルディスの王家専属被服師。
「誰だ! 私の作ったドレスを侮辱するのは!」
 顔を真っ赤にして叫んでいる。
「……」
 そして完璧に無視をするアズラル。
「――お前かぁーーぁあ~ああぁ?」
 ずかずかと歩いてきて、よくよくアズラルを見る被服師。その語尾が、いぶかしむように小さくなる。
「ぁぁ~~~あ、ああアズラル・ランゴッド様!!?」
「知り合いか?」
 狼狽した被服師に、カイルは声をかける。
「知り合いも何も!! 被服師たちの間で知らないものはいません! 彼の異名は希代の縫術師(ほうじゅつし)! その黄金の手で作られる斬新なドレス! 服の数々!! 私達の永遠の憧れ! しかし彼は孤島の島の住人、誰も招き入れる事ない道の場所でその腕を発揮し、時折ふらりと現れては新作の服を売っていく……その店は反映するそうです」
「……」
 それがどうした。
「ランゴッド様! ここで出会えたのも何かの縁。どうか、どうか私を一番弟子に……」
 ついでにアズラルが弟子を持たない事も有名だ。
「私は、弟子は取らない主義だが――そうだな。一人くらいなら」
「本当ですか!」
「まずは、私の弟子に相応しいか試験を受けてもらおうか?」
「は! もちろんです!」
 一枚の封筒を、アズラルは取り出してテーブルに置く。
「シャフィアラの王家だ、そこの王妃を満足させてみろ」
「かしこまりました!」
 恭しく封筒を受け取って、男は部屋をさて行った。
 そしてそのまま、荷をまとめてシャフィアラに行ったらしい……どうやってだ?
「……」
 呆然と、カイルはその光景を見ていた。
「さてどうする? これでエルディスの被服師はいなくなってしまったな」
「何してんのよ、この確信犯」
「ぉおリーディール!」
 ふわりと、白いドレスの裾が舞う。幾重にも重なったスカートは、床に届きなびく。
 一瞬にして、現れた白の色。――その、リールのためだけに作られた婚礼衣装。
 カイルですら息を飲んだ。
「? 大丈夫?」
 声を失ったカイルが、かろうじて頷く。
「で、何しに来たのよ?」
「ご挨拶だねぇリーディール。まさか、約束を違える気かい?」
「……」
 それは、十年と少し前にさかのぼる。

『ランゴッド様』
『なんだ?』
『あちらが――』
『ぁあ、エアリアス家の当主か』
 ランゴッドの視界の先、城の一角に人影が見える。それは王と、この国の薬師の当主。
『本当に病を治しているか、怪しいものだがな』
『ランゴッド様!』
『――わかった、ここは人が多い』
 回廊を歩く。目的地は王妃のいる部屋なので、王と別れたエアリアス家の党首と、どうあってもすれ違うしかない。
 地位は向こうが上だ。こんなところで、喧嘩を仕掛けるかいのある相手でもない。
 だから、気まぐれが働いたのか?
 すれ違いざまに立ち止まって礼をすれば、一瞥される。まるで、初めて存在に気がついたと言いたげだった。
『ぁあ、王妃のお気に入りか』
 まるで、それ以外価値がないと言うように。
『恐れ入ります』
『……まぁいい』
 若造がでしゃばらない事だな。
『――時に、』
『なんだ』
『そちらに、もうすぐ十になる娘がいらっしゃると伺いましたが』
『それがどうした』
『この国では十歳を迎える事は祝いです。もしよろしければ、贈り物を届けたいのですが』
 その時、あの当主には、自分の事を権力者に媚を振る犬のように見えたのだろうか。
『そうだな“十”の誕生日はあの娘にとって意味のあることだ』
 それがまさか、心を深く傷つけることだとは、知らなかった。
 だが、この時、私と彼女をつなぐ縁ができた。確実に。
『あの娘が十になる日は忙しい。もし贈るなら近日中にしてもらおうか』
 それだけ言って、当主はもう用はないと私に背を向けた。

 それから、数日後。
 私はエアリアス家に招かれた。

 名が売れるというのは、良い事であり、そしてつまらない事だった。
 今の地位は不足なく、すごしよい。
 だが、時折、この地位を怨んだ。
『見てください! これですの!』
『まぁこれが――』
『ぇえ、ランゴッド様の――』
 名が売れすぎて、自分の作った服は希少すぎた。
 まるで観賞用の絵のように、厳重にガラスの官の中に飾られている服を見て、愕然とした。
 誰もが、その服を汚し価値を落とすことを恐れた。
 娘に贈っても、両親はその“贈られた”事を喜び、自慢する。服はいつまでも、着られる事はない。
 いつまでも――

『こちらは――』
 感慨に耽っている隣で、例の当主が自分達の一族の自慢をしている。
 どうやら、自分の妻に服のことを話したら、たいそう憤慨されたようで。あわよくば、その妻も自分用に服がほしいらしい。
 会話の端々で、いくらでも金は積むから作ってくれといわれる。
 こっそりと嘆息した。
 おそらく、その妻は私の話を聞いているのだろう。
 自分の事ながらおかしいと思うが、私は服を作る相手は自分で選ぶ。
 その人の服を作りたいと思うから作るのだ。
 ただ王家と、自分の地位向上のためなら別だが。それはこれまで作ってきた物を少しアレンジしただけだ。
 この者のためだけの服を作りたいと思う相手は、今はいない。
 今はこの国の王妃に、それなりの型のドレスを持っていって満足してもらっている状態だ。
 簡単に言うと、私は私の服を着てくれる人がほしかったのだ。
『見てください! あなたからいただいた服はここに――』
 そう言って当主が、壁にかかっている布を取り払う。

 “仕舞って”あるのでしょう?
 そう言いたかった。それは飾りではないのに……?

『なっ!?』
 当主が驚くのも無理はなかった。その場に置いてあるべき服が、なかったから。
『誰だ!! 誰か! 誰かいないのか!!?』
『父上? いったい何が?』
『リンザイン! ここにあった服を知らぬか?!』
『へ? え、あっいえ。知りませんが』
『ぇえい! とにかく探せ!!』

 あわてふためく当主を余所に、私は少しだけ心が躍るのを感じた。
 なんだ、何か。そう何か――楽しいことが起こりそうだ

『きゃーー!!』
『何事だ?!』
 外から起こった悲鳴に、当主が機敏(きびん)に走り出す。こんな時だからか、足が速い。
 おやおやとあとを追う。扉をくぐった外では、婦人の一人が卒倒していた。
『リクエラ!?』
 当主の顔色が変わったことから、きっとその人が伴侶で――?
 ふと、婦人の先に見えた色合い。“白”の服。
 白なら、似合わない娘もいるまいと、贈ったあの服。
 それは式典にでも着て行けるような服であり、さらに実用性を持たせて動きやすく、していた。
『?』
 オレンジ色の髪を肩口まで伸ばし、左側で少しだけまとめられた髪がゆれる。
 のちにリーディールと呼ぶ事にした少女は、あろう事か私の服をズタボロにして出てきた。
 いったい何をして遊んできたのだろうか? 着る衣服も、顔も泥で汚れ、服は所々裂け目が入っている。
『リロディル! 何をしている!!』
『ひゃ!?』
 つかみ掛かった当主をさっと避ける少女。見事なものだった。
『~~その服がどれだけ価値があるのか知っているのか!?』
『むっ私の服を私が着たらなんでいけないの!?』
 小さく頬を膨らませて反論する少女。――ぁあ、こんなにどこか荒野を走ってきそうな少女でも。美しい衣には心を奪われるのかと妙に納得した。というか、正直意外だった。
 数年後に本人に言って、容赦なく階段から突き落とされたが。
『ふざけるな! お前の服であるはずなかろう!?』
『小父上私のだって言ったもん!』
『ふざけるな!!』
『やっ!?』
 こんどは、少女は避けきれない。当主に腕をつかまれている。
 当主は左手で少女をつかまえて、右手で頭を殴ろうと振りかぶる。
 これから起こる衝撃を知って、少女の目に涙が浮かぶ。自由な手でかろうじて、頭を押さえて――
『……子どもに乱暴ですか?』
 あっさりとその腕を捕まえて、睨みつける。
『あっああ、いや――』
 間が悪いというように、当主は視線を落とした。
『ふっ……』
 よく見れば、少女は細かく震えている。――どうやら、これが初めてではないらしい。
『乱暴はどうあれ! こんなに服をぼろぼろにした事は事実だ!?』
『それが?』
『まさか頂き物をこんなにするとは。これは躾の一環だ。邪魔をするな』
 最後はもうはっきりと、部外者は黙っていろと言うことだ。
『……部外者ではありませんね』
『はっ!?』
『これから私が――彼女の服を作ります。今回の服は、動きにくかったのでしょう? 改良の余地があるということだ』
『――ぇ?』
 視線を合わせるように屈んで微笑むと、びっくりして少女は何も言えなくなっている。
『何を!?』
『言った通りですよ。これから私は、彼女の着る服すべてを作ります。これから先、ずっとね』
 あんなに自分の服をぼろぼろにしてくれる人間も、そういない。
『約束しましょう』
『やくそく?』
『そう、これから私の作った服を着る、とね』
『――この服?』
『気に入りましたか?』
『うん!』
『どこに、行ってたんだい?』
『あっち!』
『……次からは、もっと違う服を用意してあげるから』
 頼むから、もうその格好で森には行かないでね……
 それから、ずいぶんと気が早い事だが、私は最初に“白い”婚礼衣装の事を考えていた。
 よく似合うだろうと――

 しかし、それから島からもいなくなった少女。
 数年越しに見れば、自分以外が作った服を着ていた。それは新しいものを渡したので解決したが。
 そして、婚礼の衣装。もう一度白い服を着せるのを、楽しみにしていた。

※ ※ ※

「私の作った服を着ると、言っただろう?」
「忘れちゃいないわよ」
 でも、エルディス(ここ)で!?
「君さえいれば、場所はどうでもいい」
「ちょっと待ちなさいよ。あの館にあっただけだって、ずいぶんあったわよ?」
 前に激昂した事を思い出す。
「二百着だ」
「にひゃ……だから、そんなに誰が着るのよ!!」
「決まっているだろうリーディール」
「……頭痛い」
「はっはっは! 安心しろリーディール。すでに住居は確保した」
「まさかこの城の中とか言わないでしょうね」
「私はこんなに趣味の悪い所にはすまない」
「……」
「しかし! 王城には出入り自由!」
「どうして地位を獲得してるのよ!!」
「ふふふ、今私は一人の弟子を取った」
「ぁあ、さっきの」
「彼はこの王家の被服師だ」
「それで」
「私は彼の師、つまり彼よりも高い地位を持っていてしかるべきだ!」
「誰かーーここにも職権乱用している人がいるんだけど?」
「ふふふふ……後任を任されているのだ!」
「頼まれていないでしょう!」
「必然だ」
「どうでもいいわ!」
「何を言うリーディール。問題があればそれこそ直訴してくればいい。我こそはと名をはせればいいだろう?」
「この確信犯」
 おそらく、アズラルに盾突こうとする被服師はいないはずだ。それは、今、リールの着ているドレスがさっきのものよりも似合っていることが、一番良く物語っている。
 そして、エルディスの被服師が自分から申し出た事もある。承認は多い。
「さぁどうするエルディスの王子よ。私より実力のある被服師を連れてくるか?」
「……」
 気に入らないがどうしようもないというのが、カイルの率直な意見だった。
「せいぜい、父上に首を切られないようにすることだな」
「つまり、お前の力はそんなものか」
「俺が王になった暁には、出て行ってもらって構わないが?」
「その時の王妃に相談するとしよう」
「……頭が痛いわ」
「何を言うリーディール。昔に比べれば可愛いものだろうに」
「どういう意味よ?」
「はっはっは! ここぞとばかりに仕返しと言うことだ」

※ ※ ※

『は? リールがランゴッド様のお目にかかった?』
『何かの冗談でしょう。お姉さま』
『本当なのよ!!』
『……』
『どういうことなの? リール?』
 問いかけても、聡明な娘はこの伯母の前では何も言わない。沈黙を守っている。――単純に、このお姉さまにとって喜ばしくない事なのはわかる。
『この小娘! あろう事かランゴッド様の服をズタボロにしたのよ!』
『――お姉さま。もう日も暮れますし、お帰りなられたほうが……』
『何を言っているのフィーレア! 事は重大なのよ!!』
 それが“事実”なら、確かにお姉さまにとって重大でしょうねぇ。自分ではなくて子どもがランゴッドの服を着られるなんて。羨ましくて脳内沸騰しそうなのかしら?
『とにかく、お姉さま。お話はよくわかりましたから』
 とにかくわめいて騒いで当り散らして満足したのか、リクエラは言った。
『――ならいいわ。身の程をわきまえる事ね!』
『善処しますわ』
 憤慨したままのお姉さまを見送った。
『――ふぅ。少し休憩しましょか』
 三人分のお茶を淹れる。夫のものには少しだけお酒を混ぜて、リールのものにはたっぷり砂糖とミルクを入れた。
『おかわり!』
『はいはい』
 用意してあったものを、カップについであげる。嬉しそうに娘が飲み干すのを見て、少しだけ目を細める。
『ねぇ、リール。どうしたの?』
 しかし、とにかく何があったのかはっきりさせなければ。
『……』
『あなた、森に遊びに行くって言ったわよね』
『うん』
『どうして、ランゴッド様の服が出てくるの?』
『だって、あれ私の服だもん!』
『――そうね』
 ランゴッド館から、リール宛に贈り物が届いたのは知っている。
 それがリールの元に来ないで、エアリアス家の屋敷にあった。
 服の価値を考えれば当然で、リールへの贈り物だと考えればリールの主張も当然だ。
『それで、どうしたの?』
『だからー』
『だから?』
 時々、この子を一人で遊びにやってはいけない気がする。
『その服に着替えたの!』
『――で、森に行ったの?』
『うん!』
 夫と共に、頭を抱えた。晴れ晴れと笑う娘の無邪気さが、時々災いする。
 しかし、ここまでひどいのもそうそうない。
『なんて事を』
『どうして?』
 両親の落胆を感じとったのか、リールは怯える。
『あれはリール、お前の物でないと言っただろう!』
『なんでぇ!?』
『あなた。泣かないのリール』
 父親の厳しい声に泣き出したリールを、フィーレアは抱きしめた。
『……ふぇ……ぇっ』
『綺麗だったのよね』
 母親の呟きに、リールは頷いた。
『これまで見てきたドレスよりも綺麗で、美しくて。いつもと違ったのよね』
 言葉に頷くように、さらにリールは母にしがみ付く。
『だから、それが“自分の物”だと知っているのに、どうして“着ちゃいけない”のかわからなかったのよね。着たかったのよね』
 すすり泣きが、本格的に泣き出したリール。
『その服が、着たかったのよね』
 黙りこんだ父親は、唖然とした顔で言葉を飲み込んだ。
 なんのことない。その服が着てみたかっただけだったなんて。
 それぐらい、引き付けられるものがあったなんて。

 泣きつかれて眠ってしまったリールを寝台に寝かせる。居間に戻ってくると、複雑な顔をしたルフォールと目が合う。
『意外そうね』
『ああ』
『でも、少しまだ引っかかるわ』
『は?』
『まさかそれだけで、あそこまでお姉さまが怒り狂うとは思えないから』
『十分だろう?』
『いいえ、もっと何かあるはず。もっと、それこそお姉さまを嫉妬の嵐に放り込むほどの――』

こんこん

『誰だ、こんな夜に』
 ガチャリと、扉を開けた。
『今晩は、こちらに――オレンジ色の髪の女の子はおりますでしょうか?』
『夜分に人探しか? 不審者に間違われないようにな』
『いえ、申し訳ないのですが、こちらも主人の命令でして』
『?』
『その娘に、なんの御用ですか?』
『フィーレア』
 前に出て来過ぎないように、ルフォールがその姿を隠す。
『我が主人より、招待状を。あとは、もしよろしければご両親もいらっしゃいませんかと』
『『はぁ?』』
『どうやら、お探しの子を知っていらっしゃるようですので、どうぞこちらを』
 一通の手紙を残して、男は去っていった。
『なんだ? いったい』
『あなた、それを』
『ぁあ』
 あわてて開いた封筒。中の手紙を見た二人は、顔を見合わせた。

『ぉはようございます……』
『リール! 歩きながら寝ないの! 顔を洗ってらっしゃい』
『はぁい』

『いただきまーす!』
『いただきます』
『はいどうぞ』
 暖かいスープとパンをほお張って、サラダを遠ざけるリール。
『残さないのよ』
『……はーい』
 まだ少女の食べる量は少ない。リールは二個目のパンに伸ばした手を引っ込めて、サラダを食べだした。
『そうだわ、リール』
『?』
『今日はこのあと出かけるわ』
『どこに?』
『ないしょ』
『……?』
 スプーンを加えたまま、リールは首をかしげた。

『? お父さんも行くの?』
 食事のあと仕事に向かわない父親。でも出かける準備はしている。リールはてっきり母と二人で出かけるのかと思っていた。
『そうだよ』
『わーい! おでかけ~~』
 最近では、三人で出かけることはほとんどなかった。喜んだリールは外に向かって走り出した。
『リール! 上着着て! 帽子被って!!』
 てててと帰ってきたリールは、帽子を手にとって被った。
『上着は?』
『やだぁ~熱い~』
『なら持っていくわ』
 嘆息した母親の視線の先で、リールはくるくる回っていた。
『おーでかけっおーでかけっ!』
 はしゃぐリールに比べて、両親の顔色は優れなかった。

 家を出て歩いて、船を乗り継いでついた先。
 持ってきたお弁当を食べて再び歩いた先。
 森が開けた。
『ここ、か?』
『みたいね……』
『おっきーねー』
 確かに、でかい。
 広い森の切り開かれた場所にその邸はあった。地には芝が植えられている。
 二階建ての上の階にはに三角の塔。その塔に、階に等間隔に作られた窓。
『あそこに行くのー?』
 どうしたものかと、両親は顔を見合わせた。
 とそこへ、邸から二つの影が出てくる。走りよってきた影はどうやら、二人の女性のようだ。
『『こんにちは!』』
 声を合わせて、同じ顔。見ればわかる、双子だ。
『こんにちはー!』
 元気に挨拶を返したのはリール。
 さっとリールを抱き寄せたのはフィーレア。一歩前に進み出たのはルフォール。
『えっと……』
 警戒心が強い事に戸惑ったのは二人の女性。
『アズラル様が、どうぞ中へと』
『……本物か?』
『偽者がいたら……殺してますよ?』
『そうでしょうね』
 あっさりと、そら恐ろしい事を言ってのける二人。
『あなた、どちらにせよ会ってみないと』
『そうだな』
『『どうぞ、こちらへ!』』

『ようこそ』
 客間に案内される。すると長椅子に座っていた、誠実そうな男性が立ち上がって言う。
『あ、おじさんだ』
 ぴしりと、男性の顔にひびが入った。
『おじさん……』
『子どもって、正直で可愛いわね!』
『そうねユア』
『お前達、お茶の準備はどうした』
『『はーいただ今!』』
 ぱたぱたと、双子は走り去った。
『――まったく。……わざわざご足労頂き申し訳ない』
『いや』
 ルフォールが答えた。
『ようこそ、初めましてと言うべきか。アズラル・ランゴッドと言う』
『ルフォールだ。こちらは妻のフィーレア。そして――リール!?』
『はい?』
 フィーレアとつないでいた手を離して、リールは大人三人がしゃべっている間、部屋の隅をちょこちょこと行ったり来たりしていた。
『こっちにおいで』
 棚の上に置いてある物がいったいいくらか想像したくない。
『は~い!』
『この子が“娘”の――リロディルクだ』
『こんにちは!』
『こんにちは、約束覚えているかい?』
『うん?』
 こくりと、リールはかろうじて頷いた。ように見える。
『そのことなんですが』
『はい、なんでしょう』
『本当に、この子の服を、作ると?』
『私の噂をよくご存知のようで、説明の手間が省けるので助かります』
『で、どういうことだ』
『と申されましても。私は彼女の服を作りたいのですよ』
『だから、それはなぜ』
『一言で申し上げますと、彼女は私の服を着てくれそうだから、です』
『は?』
『――ぁ』
 いぶかしんだルフォールとは違い。フィーレアは口元を押さえた。
『思い出していただけたようで光栄です』
『よくわかりました』
『何がだ?』
『お姉さまが服をズタボロにしたと言っていたでしょう』
『ああ』
『おそらく――リール、いただいた服はどうしたの?』
『へっ?』
 ぎくりと、リールは顔を引きつらせた。
『えっと~あのね』
『ええ、どうしたの?』
『あの~~あのね!』
『何かしら?』
『えっとーーうんとー』
『早く言いなさい』

 あのねとリールが言った後、邸中にルフォールの驚愕の声が響き渡った。

『申し訳ない!』
『だから! 森に行く時は着古しで行きなさいって言ったでしょう!』
『……』
 ルフォールとフィーレアの声が重なって、アズラルはどうしたものかと呆れている。
『フィア! そういう問題じゃないだろう!?』
 一呼吸置いて、ルフォールが言った。
『わかった? リール?』
『はーーい!』
 二人ともルフォールの言葉は聞いていない……
『『失礼しまーす! お茶をお持ちしました!』』
 ノックはなかったような。アズラルが双子を見るとそ知らぬ顔だった。
『どうせだ、お茶にしないか?』
 とりあえず、休憩しよう。
『いえ、お構いなっ』
『お菓子~~!』
 リールが飛びついた。
『『……』』
 両親は嘆息した。
『本当に、この子の服を作るおつもりなんですか?』
『そうですが』
『何もこの子でなくとも、あなた様ほどの腕があれば、ほかの方――王妃様の専属では?』
『いえ、一応王家専属ですが』
『なにっ!?』
『知らなかったの? あなた。最近有名になった方ですわよ』
『それどころじゃなかった』
『……そうね』
 亡くなったのは、二人の王女様。
『ならそんな人がどうして』
『他の誰に着せても、例えば王妃ならもう二度と着ない。贈ればショーケースに飾られる。服がですよ。私の服はあるべき、似合う人に着てもらいたい。それに、あそこまで私の服をズタボロにできるのはご息女だけでしょう?』
『返す言葉もありませんわ……』
『それこそ、私が望んでいた事かもしれないのですから。気に病む必要はありません』
『そう言って頂ける事ですら申し訳ありませんわ』
『お転婆もここまでくると賞せるな』
『んにゅ? むにゃにゃにゅ?』
『食べてから話しなさいリール』
ごっくん コクコク ことん!
『なぁに?』
 父親の視線を感じて、さっきからお皿の上のお菓子を食べていたリールは顔を上げた。
『なんでもない』
『ねー遊んできていい?』
『『……』』
 この流れでそれか?
『どこで?』
『わかんない!』
『探検?』
『うん!』
『あのね、ここは人のお家なのよ?』
『構いませんよ』
『ほら!』
『ほらじゃない! ランゴッド様、申し出はありがたいのですが、この子は何をしでかすかわかりませんし。何を壊すかもわかりませんし』
『ひどいのーー』
 むーと、ぷくーと頬を膨らませるリール。
『大丈夫です。ここにあるのは骨董品ばかりですし。人もほとんどいませんし』
 その“骨董品”が危ないのだが。
『いってきまーす!』
『『リール!?』』
 たたたーと、リールは走り去った。
『廊下は走らないの!!』
『やーーーだーーーっ』
 遠くから声が聞こえた。
 呆然とした両親の前で、アズラルは笑っていた。楽しげに。
『――ぁあ面白い。セナ、ついて行け』
『畏まりました』
『本当に申し訳ない』
『いえ、こちらのわがままに付き合ってもらうのですから、これぐらいは構いません』
『あの、仮に――本当にあの子の服を作ってもらえるとして、こちらに招待した理由は?』
『ご両親の方にご挨拶をと思ったのですが、幾分、城の中では不都合なもので。こちらまでご足労いただきました』
『そうだったのですか』
『――当主と仲が悪いのか?』
 王家専属なら、城の中であうこともできたはずだ。
『お察しの通りです』
『あの当主ですもの』
『そうだな』
 それから数時間。子どものいない部屋で大人は語り合った。

 さて、唯一の子ども、リールはと言うと……
『わーーーきゃん!?』
 人にぶつかった。
『おっとっ』
 リールの突進を食らった人物は、持っていたものをすべて落とすことになったが跳ね返ったリールを抱きとめた。
『う……ごめんなさい……』
『いや、怪我はないか?』
『ううう……』
『え゛!?』
 ぶつかった人物。アズラルの執事であるイーザス・バルアは主人の気に入った少女が突然泣き出しそうなことに焦っていた。
『どっどうした!?』
『バルア様!? ――何を!?』
『知らん! どうにかしてくれ!?』
『どうしたの? このおじさんにいじめられたの?』
『おい』
 どさくさに紛れて何を言う。
『……ぉかあんが怒るの……』
 えっと? 二人は話しについていけなくて立ち往生した。
『廊下を走ったから?』
『それはいつもの事なの』
『『……』』
 あえて“たくましい”とでも表現するか?
『前を向いて走りなさいって怒られるの……ほんでもって夕食がないの』
『『……』』
 あの婦人、あんがいスパルタ?

『もうこんな時間か』
 もう少したてば日も暮れる。
『すっかり長いしてしまいまして。そろそろお暇しようかと』
 フィーレアが焦ったように立ち上がる。
『よければ泊まっていってください』
『そこまでご迷惑を……』

ガッシャーーン!!!

『もう遅かったようだ』
 ルフォールの呟きを聞く前に、フィーレアは早足で音のした方向に向かった。

『……!』
 こそこそっと、リールはカーテンのうしろに隠れようと……
『リール!!』
ばぁぁん!!
『何隠れているの!』
 ばさぁーっと、迷いなくカーテンを開くフィーレア。さすが母親。
『あの、あのあのっあのお母さん』
『なぁに?』
『ごめんなさい……』
『だから廊下は走らないように言ったでしょう』
『フィア、ここは廊下じゃないぞ』
『あなたは黙ってて!』
『はい』
 粉々に砕け散っていたのは、リールと同じくらい背丈はあろうかと言うほどのガラス細工。
 もとがなんなのかもわからない。
『派手にやったなーー』
『本当ですね』
『ぁあよかった。これで掃除の時に緊張しなくてすむわ』
『……セナ?』
『なんですかアズラル様』
 そんなに、これ邪魔だったんだーー
『申し訳ない』
『申し訳ありません!』
 リールの頭を押さえつけて、両親が謝罪する。
『――まぁ、そんなわけだから気にしないでください』
 どうせ、邪魔扱いされていたらしいし……
『怪我はないか?』
 ぽんぽんと頭を叩いて、アズラルはリールと目線を合わせようと屈みこんだ。
『ごめんなさい』
『面白かったか?』
『うん!』
『『リール!』』
 両親の言葉に、リールはさっとアズラルの後ろに隠れた。
『さぁさぁ皆様! 危ないですから』
『こちらの部屋は出てください~』
 掃除用具をもった双子が部屋に入ってくる。
『いえ、ここは私が』
『『え?』』
 さっとフィーレアは道具を借りる。
『さぁリール。お掃除よ』
『は~ぃ』
 あっさりと、リールは母親の手から箒を受け取る。
『けっ怪我でもしたら大変ですわ!?』
『そうですわ!』
『大丈夫です。指の先を切るくらいならいつもの事ですし――リール! ガラスを直接触らないの!』
『わっ!?』
 ガシャンとガラスがなって、また粉々になる。
『しっかりと掃いて、細かい破片があると危ないから』
 母親に始動を受けながら必死に箒を動かすリールを、残りの大人達は微笑ましく見ていた。
 掃除が終わる頃には、夜になっていた。

『重ね重ね申し訳ないです』
 結局、宿泊。夕食になった。
『お気になさらず』
バァン!
『久々のお客様で!』
『料理長も大喜び!』
 歌いながら双子が部屋に入ってくる。
『『アズラル様は食に興味がないから!』』
『お前達』
 静かにしろと、視線を向ける。
『ようこそお客様。食前酒は何がよろしいですか?』
『ぁあ――?』
『執事のバルアだ』
 いぶかしんだルフォールにアズラルが声をかけた。
『果実酒が何種類かありますが』
『リールもー!』
『お前は駄目』
『けちーけちぃー』
 和気藹々(?)と、夕食が進んだ。

『おーふーろーー』
『だから走らないの!』
『はぁい』
『飛び込もうとしないの!』
『はーい』
『まずは体を洗いなさいっ』
『はいはーい!』

『きゃーーー』
『リール! きちんと髪を拭いて! ぁあ、まったく』
『喜んでいるな』
『久しぶりに広い所にこれて嬉しいのでしょう』
『だろうな』

『きゃーーぁ?』
 ぼすんと、リールはアズラルの腕の中に収まった。
『おっ? お母さんは?』
『あっち。おじさんは?』
『おじさんじゃなくて、アズラル』
『あずらる?』
『そうだよ。リロディルク』
『それ嫌い』
『っ!?』
 一瞬にして、空気が冷える。先ほどまで騒いでいた気配は微塵もない。
 低く暗く呟いたリールの言葉に、アズラルは息を飲んだ。
『なら、なんて呼ぼうか?』
『“それ”意外なら、いい』
『そうか……なら“リーディール”は?』
『リーディール?』
『嫌かい?』
『……きらいじゃない』
『なら決まりだ、リーディール』

『リール! どこまで行ったの?』

『ほらお母さんが呼んでいるよ。おやすみ』
『おやすみなさい!』
 またぱたぱたと、リールは廊下を走っていった。
『おやすみ』
『『ア~ズ~ラ~ルさーまぁー』』
 ぼおっと、廊下の影から双子が現れる。
『なんだっ、セナ、ユア』
『まさか、そっちの趣味に走っておりませんよね』
『いくらなんでも歳の差を考えてくださいね』
『なんの心配をしている!?』

 客室の寝台はとても大きく、家族は娘を挟んで眠りについた。

『まーたぁーーねぇ~』
 母親につながれた左手、開いた右手を元気に振る少女を見送る。
 朝になってから、セナとユアに必要な採寸をしてもらった。
 終わる頃には日も昇りっていた。
 さすがに昼食はと断る夫婦にお弁当を渡して、別れた。

 今度は、できた服を届けると約束して。
 リールは、また遊びに来ると言って。

 だが次に少女がここを訪れた時は、一人だった。――本当に、独りだったのだ――

 それから、数年、数十年。
「私はまだ二十歳すぎだった!」
「“おじさん”って言った事まだ根に持ってるの?」
 リールは脱力した。
「しかも新しい服を作って行ってみれば、着られればなんでもいいと飾り気のない服ばかり!」
 アズラルは、一人力説していた。
「……」
「ようやく趣味に添えたかと思えば島にいない!」
「……」
「帰ってきたかと思えば違う服を着ている!!」
「……」
「私の落胆ぶりを知っているのかい?」
「知らん」
 どうでもいい。
「せっかく君のために服を作ったのに、一度も着られずに仕舞われていくばかり。しかたないから適当に直して王妃の要望に使ったり、時々他国の店に売り払ったり。収入は増える一方。私の服着てくれる人は帰ってこない!」
「~~~わかったわよ! 着ればいいんでしょう!?」
「最初からそう言っているだろう? リーディール」
「はぁ、もう」
 がっくりと、リールは額を覆った。
「で、本当はどこに居座る気なの?」
「郊外に住居を押さえてある」
 アズラルはイーザスを指差し、彼は少しだけ頭を下げた。
「さすがね」
 リールは賞賛した。
「もったいないお言葉です」
「じゃーそろそろ帰って」
「追い出す気か!?」
「だぁから、後ろ詰まっているの!」
「自業自得だろう?」
「ぐ……」
 なんで知ってるのよ。
「……お前達」
「何?」
 今まで黙っていたカイルは、二杯目のお茶を飲み干して声をかけた。
「どういう関係だ?」
「婚約者候補」
 アズラルが即答した。まるで、それ以外に答えはないと言うように。
「……」
 ピキリと、大きなヒビが入る音がした。
「ぁあ、小父上の“まだ財産を得る気か計画”の一部ね」
 あっさりと肯定したリールに、カイルは目を剥いた。
「――おい」
「でなければザインだったのよ? 閉鎖的な空間(あの島)ではそんなに幅広い血脈は集められないの。ある意味で誰かとつながりがあるんだから」
 結婚相手も限られる。子孫を残すならなおさら。あまり近すぎる血縁同士は禁止されていたが、しかし――
「それに、濃い血を求めていたから。それと財産をね」
 あの当主は。
「あのあとすぐに決まったのね」
 実際は知らなかった。だが起こってもおかしくはなかった。
「そうだ」
 あの時の喜々とした当主の顔は忘れない。
「その時、お前は十足らずだろう」
 カイルが、何か考え込んでいた後に聞いてきた。
「そうよ?」
 それがどうしたのよ。
「……」
「何かな、いったい」
 その場の兵士の視線ですら集めて、アズラルが言う。
「いや」
 カイルが口を閉じたあとも、沈黙は続いた。

 再び、アズラルの少女趣味疑惑が怪しまれていた沈黙だった。

「それでも、私は構わなかったがな」
 それを知ってか知らずか、アズラルはカイルを挑発するように言う。
「そうだろうリーディール」
「嫌いじゃなかったけど?」
 リールは笑った。その笑みに、アズラルは満足したようだった。
「――元気で、リーディール」
 立ち上がったアズラルは、くしゃりとリールの頭を撫でた。
「おめでとうございます」
 イーザスが言う。
「「また、来ますわ!!」」
 セナとユアは一礼した。
 四人が去っていく中、カイルはただ一人不機嫌だった。

 もう待ちくだびれていたはずなのに、そんなこと微塵も感じさせない。そんな祝福に来た人々の姿。
 もう何度目かわからない鐘の音。あれからまた、幾人も幾人も見送って。
 ふっと、リールは扉に視線を向けた。
「ら?」
 今度入ってきたのは、場違いなほど小さな女の子だった。
 これまで子どもがいなかったわけではないが、親の付き添いがあった。
 一人で、来たのだろうか?
 少女はきっと口を結び、一歩一歩進んでくる。この兵士や護衛、高貴とされる人という威圧感に負けないように。
 しかし、
がっ
「ひゃぁ!?」
 分厚い絨毯に足をとられたのか、少女は前のめりに転んだ。
 手に持っていた花束が転がって散る。
 さっと立ち上がったリールが、すばやく階段を下る。
 そんなに早く動けるのも、足に絡む生地をできるだけ少ないドレス、ヒールによって足のとられることない作りの履物を作ったアズラルのおかげだ。さっきのドレスだったらおっくうすぎてやっていられない。
 体が動いたのは、その子の姿がウィアを思い出させたからかも、しれない。
「大丈夫?」
 一向に顔を上げようとしない少女を立ち上がらせる。
 膝をついて視線を合わせると、少女の顔が赤く染まっている。
 ぁあ、これは――
「ぅわぁあぁん!」
 泣くなぁと思った時に泣き出されて、抱きつかれる。
 実はドレスが汚れると、兵士達がはらはらしていた事をリールは知らない。
 立ち上がって階段を下った時も、実は少女はどこかの間者ではないかと、兵士達に緊張が走ったくらいだ。
 その警戒は、カイルによって解かれたが。
「ルティ!」
 閉じられていた扉が、無理やりこじ開けられる。
 いきなり入ってきた老人を捕らえようとした兵士が、またカイルによって制される。
 突きつけた槍を下ろせば、老人はリールのもとに走りよる。
「申し訳ありません、この子が」
「違うのぉ!」
 突然、女の子が老人に抱きついた。
「ルティ!」
「だっておじいさんのお花!」
「だからと言ってここまでくることないだろう」
 老人の声は、穏やかだった。まるで、あきらめてしまったかのように。
「だって! 誰でもご挨拶できるって聞いたもん!」
「今回は例外なのだよ。普段であれば、私達がここまで入ってこられるはずもない」
 よく、わかっている。
 はははと、リールは乾いた顔をしていた。
「だって、お花」
「――渡せたのかい?」
「!」
 さっきこけた時に床に叩きつけられた花は、その姿を散らしていた。
「わぁぁん!」
 すっと、リールはその花束を拾った。
「ぁ」
「王子妃様!? お捨て下さい」
「やっぱり、それなのね」
 はぁっと、リールはため息をつく。
「は?」
「なんでもないわ。――もらっておくわね」
「ぇ?」
 さくさくとリールは戻って、侍女に花瓶を持ってくるように言う。
 その花も手渡して、少女の前に戻る。
「ありがとう」
 言葉を失った少女に微笑んで、戻って椅子に座った。
 しきりに感謝を告げる老人とリールを見つめたままの少女は、その部屋をあとにした。
 散ってしまった花びらは集められた。そしてその花びらで香り袋を作りましょうと、侍女が提案した。
 その声に答えて、ふとリールは呟いた。「まるで本当に、ウィアみたいだったわ」と。

 次に入ってきたのは、背の高い男性。すぐに、わかった。
「久しぶりね」
「お元気そうで、リール様」
「タイム王は?」
「さぁ? こちらに来ておりませんか?」
 少しだけ意地悪く、シーンは言った。
「何、復讐?」
「これぐらいは、特権かと」
「いいけど、後悔しないようにね」
「……ただ少しだけ残念なのは、もう二度とラビリンス王とあなたが一緒にいる所が見られないことです」
「……」
 何も、言えなかった。
「もしも、機会があれば再び、あの木の下にいらっしゃいますか?」
「――必ず」
「王も喜ぶことでしょう」
 どちらの、王が? いや、どちらの王も。

 それからも、気が遠くなるほどたくさんの人がやってきた。そして響く、喜びの声。

「こんにちはといいたい所ですが、もう夜になってしまいますわね」
「そうね」
「自分の時も、こんなにも人がいたのかと思うと驚きます」
「アイエ、そんな過去の事はどうでもいいだろう?」
「だけど」
「今に何か不満でもあるのかい!?」
「そんなことないわ」
 二人は見詰め合っている。完璧に回りのことは視界から削除されている。
「「……」」
 この時、リールとカイルの心は同じだった。
 “帰れ”と。
 少しだけ膨らみ始めたおなかを押さえたティアイエルと、最初から最後までティアイエルしか見ていないヨクト。
 もう帰れといいたくなるのも頷ける。
「お幸せに」
「そちらも」
 微笑んだティアイエルの表情が、妙に印象的だった。

 そして、今日は次で最後だという。もう他の人々には城のバルコニーから手を振ってくれといわれる。
 あまりに多すぎて、収集がつかないらしい。
 最後は、曲芸団の登場だった。

 たった二人のために来たのだというのかから、ずいぶんと豪華なものだ。
 普段なら城からでる報酬も受け取らないらしい。
 こんなにも喜びの日に、いただけないそうだ。
 軽快な音楽と共に、窓のカーテンが引かれる。
 暗くなった部屋の中に炎が浮かび、動物が鳴く。
 音楽と共に舞う人。ロープを渡る人。
 兵士達ですら楽しめる、曲芸。
 時折手を叩いて、リールは観覧していた。
 と、簡易舞台の袖から座長が出てくる。
「はじめまして、座長のスライルです! さぁ、今日のメインはお次の演技!」
 ――短縮?
 と、黒いフードを被った五人の人が出てくる。
 その下に光るものを見つけ、兵たちに緊張が走る。
 始まった音楽に合わせて踊る人影。大きな太鼓の音にあわせて、そのフードが取り払われる。
 現れた五人の人物のうち、一人と目が合う――
ガキイィン!
 その一瞬の出来事のおかげで、部屋は曲芸の余韻も残らなかった。
 リールに向かって飛んできたチャクラムが、レランの剣によって叩き落される。
 一歩間違えば、首が飛ぶ。
 緊張が走って、兵士が剣を構える。
 視線のあった人物が投げる場所を間違えて、自分にチャクラムが向かってきたのはリールも気付いていた。
 しかし、一歩たりとも動かないし、椅子から立ち上がる事もないし、まして自分で剣を取り出すこともない。
 それは今の地位を考慮していたからに他ならない。そして、必ず助けられると知っているから。
 飛んできた物を拾ってリールに渡したレランは、しかしため息をついていた。
「――リールさん!?」
 そのため息をも吹き飛ばす声が響く。
 チャクラムを飛ばす場所を間違えてリールに当てるところだった男が、そんなことを言った。
 また知り合いなのか!? 部屋の中には驚愕が走った。
「お久しぶりですね! こんな所で、何やっているんですか?」
 男の声は、明るく、思いがけず旧友にあっているといった感じだ。
 だがしかし、その質問にピッキーンと、部屋の中は凍りついた。
「……ここにきて、その質問は初めてね」
 リールは呟いた。
「れれれレステッド!!」
「ぅわ座長!? なんでしょうか?」
「なんて事してくれるんだ!!!」
 お前は俺の首を切り落とす気か!?
「は?」
「用兵はどうしたのよ?」
 レランから受け取ったチャクラムを手で持て遊びながら、リールは問う。
「あのあといろいろ考えたんですけど、どうも僕には向いていなかったようで」
「転職?」
「天職です!」
 それで間違って王子妃を殺しかからなければね。
「しかし驚きましたよ。こんな所にいらっしゃるので、危うく手が滑って……あれ?」
「レースーテッド~~!!!」
「だから、どうしたんですか座長?」
 ここまできて気がついていないのだから、もう賞賛すべきか?
「ふぅん。それで曲芸?」
 シュッとリールはチャクラムを投げた。丸い軌跡を描いた輪は、少しだけ伸びをしたレステッドの手の中に納まる。
「そうなんですよね。でも知り合いがいるのは初めてで」
 いやぁ~修行が足りませんねと、言う。
 根本的に頭が足りていない。
「で、何しにきたのよ?」
 ここまでくれば、リールは確信犯だ。
「あ、そうなんですよ~なんでもエルディスの王子様が結婚するとかで、そのお祝いに駆けつけよう! と座長が張り切っていまして」
「へぇ」
 座長も他の曲芸師たちも、ここまでくれば何も言えなかった。
「やってきたわけです!」
「大変ね」
 これから、あとが。
「そうでもないですよ?」
 なぜそんなことを言われるのか、いまだにわかっていないレステッド。
「って、リールさんは何して……」
 ようやく、一息ついたらしい。
 ふっと前を見て、今“自分”が言ったことを思い出して。
 レステッドは目をゴシゴシとこすった。
「……」
 何度見ても変わらないから。
「ぁの~~……」
 語尾が弱い。
「何? そういえばさっき、ラバリエさんとセラセニアが来たわよ」
「なっ!? セラセニア嬢が!? 座長! お願いします! 夜の芸は僕なしでお願いします!!」
 このあと、一般市民の前でも公演が決まっていた。
「ふざけるなっ!」
 座長一喝。
「そんなぁ~」
「そんなに会いたくないの?」
「だって、“セラセニア”嬢ですよ……」
 大丈夫よ、きっとラバリエさんか夫以外は目に入らないから。
 と言うよりも、覚えていてくれるのかすら、謎でしょう?
「ざーちょ~ぉ~」
「えーーい! 離れろ!!」
 大の大人が……
「まぁ、関わりたくない気持ちはわかるな」
 あの娘に。
「でしょうね」
 カイルの言葉に、リールは答えた。
「さて、申し訳ないがもう時間のようだ」
 あっけらかんと、カイルは退出を促した。
「ぁっあのっご無礼のほどは……」
 座長は、何か罰があるのではないかとびくびくしている。まぁしかたない。無礼極まりないのだから。約一名。
「気にするな、俺に関係ない」
 レランがいるからこそ、飛来する凶器を放っておいたのだから。
「……」
 座長は、あんぐりと口を開けたまま、固まった。いくらなんでも甘すぎるだろう!
「そんなことおっしゃらずに!」
 首を切られたいのか?
「外ではみなが曲芸団を待ちわびている。ここで生かしきれなかった技を、そこで披露してやれ」
「この失礼極まりなき非礼に対する、寛大なお心に救われる思いです」
「気にするな、どうせ“こんな状況”だ」
 さっきから。
 ぴしっと、リールの顔に怒りが浮かんだ。
「本当に申し訳もありません!」
「……あれ?」
 ようやく現実を認識したレステッドの呟きは、全員が無視した。
 退出していく曲芸団。閉じる扉。
「……ぁあーー!?」
 扉が閉じる瞬間、振り返って叫ぶレステッドの顔が見えた。

「騒がしい」
「もう来ないだろうな?」
「あんなにボケた知り合いは……これないようにしたんじゃないの?」
「当たり前だろう?」
「……」
 そこまで独占欲を披露しなくてもいいでしょうに。

※ ※ ※

 祝賀に出ると言ったカイルと別れて、準備万端で待っていた侍女達に囲まれる。
 お世辞にも傷一つないとはいえない肌を念入りに洗われて、髪に花が飾られる。

「これであなたも――そしてエルディスの」
 そしてやってきた王妃に、ありがたくもない説教を聴かされる。
 内容は、まとめるとエルディスの王子妃として恥ずかしくないようにしろってこと。
 心配なのは、自分の体裁でしょう?
 まだ孫がどうとか言っていたけれど、ほとんど聞いてる振りして聞き流した。

「ぁあーーもう」
 ぼすっと、寝台に仰向けに寝転がる。
 おかしいことに、眠る方向を横切るように寝転がってもまだ頭の先が余っている。
 どれだけでかいんだ!?
「眠い……」
 薄着越しに触れる布の感触。
 いつの間に取り入ったのか、夜着でさえアズラル作だ。
 もう眠気に襲われて、うとうととまどろむ。高校と照らされた部屋の明かりの色が、ぼんやりと目に映る事もなく揺れて――

『リール』
「え?」
 呼び声に体をおこせば、開いていた窓のカーテンがはためく。
「「「「こんばんは」」」」
 はためいたカーテンの向こうに現れたのは、四人の新獣王。
「四獣王?」
「おいわいよ!」
「お祝いに」
「祝いだから」
「祝福を」
 一言ずつ呟いて――そして、
「待って!」
 かき消されるように消えた。姿。
 現れた時と同じ、空気に溶けるようだった。

「勝手に消えるな!」
「――なんのことだ?」
 うしろから、驚いたようなカイルの声が聞こえる。
「あんた、来るの早すぎ」
「……これでも、いつまで放っておくのだ? と言われてきたんだが」
 心外だ。
「今、獣王が来たわ」
「四人?」
「四人」
「珍しいな」
「本当よ!」
 苛立ち紛れに、リールは寝台の横にあった水差しの水を飲んだ。
「食事は?」
「もういいわ」
 実は、ひっきりなしにくる来客の合間に、二人はいろんなものを用意させてつまんでいた。
「そう、か」
 風もなく、穏やかな夜。
 カイルは窓際に行って窓を閉じ、カーテンを引いた。
 再び眠いと言い出したリールは、寝台に腰掛ける。
「ぁ~~~疲れた」
「そうだろうな」
 リールは、カイルが近づいてくる事にさほど興味を示さない。
 そして、一瞬の出来事だった。
「――は?」
 気がつけば天井が見えて、長いカイルの髪が頬にかかっている。
「……」
「疲れるだろうな」
「あのさぁ」
「なんだ?」
 ――どいてくれない?
 寝台に縫い付けられるように、押し倒されているリール。
「いやだ」
 カイルの顔が首筋に埋まる。
「ちょっちょっと待って!」

「――俺が何年、待ったと思っている?」
「~~~っ!」

 リールに取っても長い一日は、まだ終わらない。

 ふと、まどろみに目が覚める。
 部屋に差し込む日差しの量と明るさで、何時だかわかる。
 ここでの、いつもの、起床時間。

 ――ぁあ、こんな時でも、この場所でいつものように、こんなにも朝早く目覚めるか――

 閉じられたカーテンの隙間から、細く細く柔らかい光が差し込んでいるのをぼんやりと眺めた。
 腕を敷布から取り出して、額に当てる。こみ上げてくる笑いを噛み殺してしまう。
 はっとして、ふと、隣を見れば――眠るその姿にほっと息をつく。
 今まで、それこそ何度も――この姿が手に入らないことを嘆いたのだろうか。
 だが、もう。
 手に入れたわけじゃない。共にいてくれる。
 だからこそ、今ここに。
 こちらに背を向けているのが癪で、近寄って自分に体を向ける。
 そのまま抱きしめて――抱きとめて再び、この腕の中の温もりが目覚めるまで眠ろう――

「……ん?」
 目覚めがすっきりしない。原因を思い出して、顔をしかめた。
 そして、暖かい。
 まさに目の前にあるのが胸板で、その両腕が背中と腰に回されている。
「……」
 無言で、向こうに押しやって抜けようとするも――びくともしない。
「――起きているでしょ」
「ばれたか」
 呆れて見上げれば、その目が片方だけ開かれた。
「邪魔」
「そういうな」
 そう言ってまた目を閉じた。
「ちょっと!」
「うるさい。俺は眠いんだ」
 今日は朝から睡眠を邪魔するやつも来ない。政務もしなくていい。――しなくていい?
 父親に押し付ける気だ。
「あのねぇ」
 自分一人で勝手にして。
「ぐー」
「おい」
 なんとか伸ばした手で胸板を叩いた。
「……ぁあ、そうだ。セイジュの奴を捕まえておかないと……」
「……は?」
 そのまま、カイルは寝てしまった。
(で、私は?)
 抱きしめられたままで、動けない。
「……」
 リールは不貞寝をする以外ほかになかった。

 本当は、怖かったのかもしれない。
 朝起きて、その温もりが、この手を離れていってしまうことが。

 そしてなぜか、今日の朝レランは休日を押し付けられた。しかも国王に。
「なぜですか」
「エルディスではそこまで労力を酷使しているのかと思われたくない」
「私は構いません」
「ぁあ構わないよ、レラン。君が君の休日に、どこで過ごそうと、何をしようと」
 有休を取れとは言わない。だからこそせめて普通に休暇くらい取れ。
「給料が変わるわけじゃないのでな」
「そういう問題ではありません」
「……わかっている」
「陛下?」
「だがここはエルディス国内だ、そんなにも、何を緊張している?」

「い~いい天気だね~」
 よいしょっと、セイジュは木に上る……
ザシュッ
「ぅぎゃあ!?」
 そこへ容赦なく飛んできた短剣。避けたセイジュの上、一振りの枝を切り落としてセイジュを襲う。
「いってぇ……」
 地面に落ちて、起き上がって座り込んで、頭をさすっていたセイジュが絶句する。
「――何をしている」
「いやっえとーー」
「なんだ?」
「……覗き?」
 なんだそれは。
 ジャキンと、剣が突きつけられた。レランに冗談は通じない。いや、セイジュの冗談は通じる事はない。故意に無視される。
「お前、まさかよりによって王子――とあの小娘の部屋を覗こうとしたんじゃないよな?」
「そんな命知らずじゃないです!」
 失言にあわてたセイジュ。だがしかし、この木を上ってみれば確かにあの二人の眠る部屋に近い。
「で、お前」
「はい!?」
 ひくっとセイジュは引きつった。
「いったいここで何をしている!」
 ぎいやぁーー!? と、セイジュの声が空に響いた。

(何をしている、あいつら?)
「うるさい」
 カイルが目を覚ますのと、リールが目を覚ますのは同時だった。
「……んっ……ちょっと!」
 後ろに回されていた手が意思を持って動き始めるのを留める。
 睨み付けるように見上げればかち合ったのは穏やかな瞳で、放れない。
 上を向かされたと思えば口付けが降ってきて――長い。
 それが名残惜しげに離れると、笑ってしまった。
「……っく……けほっ」
 喉が渇いていたのか、笑いが途中でかすれ、咽る。
 すっと起き上がってカイルが寝台を降りる。確かに、暖かさは半減した。
 起き上がるのも億劫で視線だけ追う。
 少し離れたテーブルの上にあった水差しの水をグラスに注いで、帰ってくる。
 その膝が乗って、ぎしりと寝台が沈んだ。
「ん……ぅ……」
 口移しで飲まされた水はかすかに柑橘類の味がした。
 だがしかし、それだけですまない。
「……も少し……」
 離れていく唇に水を要求する。
 再び唇が重なって、飲み込みきれずに溢れた水が、頬を伝った。

「あ~ぶねぇあぶねえ。死ぬ所だった」
「この国で一番死に近いのはあなたですから」
「ぅげっオークル……」
 真後ろからかかった声に驚いて、セイジュは飛び上がった。
「何を逃げるのですか? いったい?」
 切るに切れない長い髪を後ろでまとめて、不思議そうに首を傾げている――この白々しさ。
 ちなみに三つ編にしている。似合うような、似合わんような。
「その顔でいったい一般市民をいくら騙してきたんだよ」
「なんのことでしょう?」
「うるさい! 俺は人外パーティにかかわってる暇はな」
「で、昼寝の暇はあるのか」
「それは心の癒し~げぇ!?」
 セイジュは固まった。
「それはいい度胸だ。叩き潰しがいがあるな」
 逃げようと一歩進んだセイジュの足に、なぜか絡んでこけさせる物――それは縄。どこかで怨念でも拾ってきたとでも言うように、所々血が滲んでいる。そして、今、そこに新たな鮮血が……
「うぎゃぁーー!?」
 本日二度目だった。

「何? また」
「熱心だな」
 レランが。
「おなかすいた」
「起きるか。湯の用意もしてあるはずだから」
「だる……」

「んん~~」
 のんびりと足を伸ばして、むしろ寝転がっても有り余る広さの湯につかってきた。
 やってきた侍女達は全員追い払ったあとで。
 さて、問題はこれからだ。
 ここまではカイルに連れてきてもらったが――上がる時は?
 いまだに自由になりきれなず、気だるい体を持ち上げようと……
「やあやあやあやぁリーディー……ぐげっ!?」
 向こうから近づいてくるふざけた影には、置いてあった飾りを引き抜いて(破壊して)投げつけた。

「で、あなた達どうしたのよ」
 リールは肌着を着て、鏡の前。その後ろで世話しなく動き回る二人の女性。
「あ、もうリーディール様! 動かないで下さい!」
 追い払ったアズラルのあとから、セナとユアが入ってきた。手馴れた手つきでリールを湯から上げて、今は髪を念入りに拭いている。
「そうですわ。それが、アズラル様が国王様に交渉したらしく、私達リーディール様付になれました!」
「……まぁ歪んだもの同士話があったのかもね」
 国王とアズラルは。
「新しい方を雇わなくてすみますし」
「知り合いが数人いたほうがいいだろうとおっしゃりましたよ?」
「……」
 妙な所で気を回されている気がする。
「「で、リーディール様」」
「……何」
 二人がわくわくと構えている。嫌な予感。

「はっはっは」
 なぜか、額を押さえつつ入ってくる呼んでない男。冷めた目つきで、なんだお前と睨みつけた。
 ちなみに、今ここで服を着せているのはこいつの執事だったか。
「追い出された」
「さすがに、状況が状況ですので」
 静かに、イーザスが手を止めて、振り返って言った。
「今更文句を言うようなものでもないだろうに」
 何か、不可解な言葉を聞いたが?
 カイルの不穏な空気を察したのか、アズラルの執事、イーザスは主を振り返った。
「なんだ? 嫉妬か?」
 そして、あっさりとアズラルは言ってはいけないことを言う。
 ひーーと心の中で平穏が保てないのは、レランとセイジュの代わりにいる護衛達。

「却下」
「「なんで!?」」
「なんでじゃないわよ!」
 そんなに大きく胸の開いた服が、着れるわけないでしょう!!?
「ぇえ~」
「ひどいわ~」
 ひどいのは貴女達。
「せっかく用意したのに~」
「「アズラル様が」」
「……」
 あいつか。
 さすがのリールも、今日は言うならばむしろ首の詰まった服が着たい。
「ではこちらは?」
 胸の大きく開いて、肩から腕も剥き出しになる服をしまって、次を用意するセナ。
「なんでもいいから」
 とにかくこの首筋に残されたあとが隠れる服にして。
 と、突然、扉が開かれた。
「おはよう。リール? 昨晩はよく眠れた?」
「……」
 寝たのは朝方だ。
「お気遣いなく」
 なんでそんなに必要なんだ、と問いかけたくなるほどお供を連れた王妃がやってくる。
「ぁあ!? リーディール様動かないで!」
「わかった……」
 セナとユアにここぞとばかりに遊ばれていて……どうしたものか。
 なぜかにこにこと機嫌のいい王妃は、その様子を少し眺めてから去っていった。
「……あやしい……」
 呟く。そして、セナもユアもひどかった。
「「変な王妃様!」」
 そしてまた、閉じたはずの扉が開く音。今度は振替らかなった。
「おい……まだか?」
「こっちが聞きたい……」
 支度が一段落したのを見計らって、遠慮なく部屋に入ってきたカイルを振り返る――驚いた。
 二人とも着ていたのは、同じ鮮やかな青の服。
「さぁリーディール様!」
 最後に、カイルが着ているのと同じ羽織をかけられる。銀の刺繍の模様も同じで、合わせ目だけは逆になっている。
「セナ!? ユア!?」
「「いってらっしゃいませ!」」
 そういって突き飛ばされる。その予想外の出来事に足下が崩れた。
「あぶっな――っ」
 目の前のカイルに向かって倒れこめば受け止められる。
 自分で顔を上げるのと、こっちを向けと言うようにあご先に指がかかったのは、どちらが先かわからない。
 ただ顔が近づいてきてそれにあわせるように目を閉じるのと、これを狙ったアズラルに悪態をついたのは同時だったように思う。

 なんの風習かは知らないが、婚儀が終わったあと数週間は一目に触れるのを極力避けるのが慣わしらしい。
 それは、人々が逆に目にするのを避けていると言えないだろうか。
「いただきまーす」
 そんなわけで、リールは好きなだけ好きなように食事に徹することにした。

「でもアズラル様。よく王子様の服まで作りましたね?」
「何を言う。私の芸術の隣にあるものが三流品であってなるものか!!」
 二人の言葉に力説を返すアズラルだが、ここにリールがいたら確実に「早く帰れ」といわれていた事だろう。
「さて、一休みと行くか」
「「さんせーい!」」
 ああやって、リーディール驚きに届けたのは久しぶりだ。驚かされて(脅されて?)ばかりだったので丁度いいだろう。
 昼食を一緒にと誘われたが、あの王子に睨まれて食が通る人も珍しい。
 まぁもっとも、アズラル(この男)は気にせず食べるだろうが、問題はそこではない。食事を一緒にと誘う事自体、何か裏を勘ぐってしまう。なんと言っても、相手はあのリーディールだから。何事もないわけがない。
 と言うわけで、ゆっくり屋敷に帰って……
「その前に、アズラル様」
「なんだ、イーザス」
「シャフィアラの王家から手紙が来て」
 イーザスが手に持っていた手紙が、一瞬にして、無残にも紙くずに変わった。

「ごちそうさまでした」
 優雅に、大量の皿が空になった食事が終わった。満足してお茶を飲み、部屋に帰る。有り余る本を読もうと思ったら、カイルがやってきた。
「出かけるぞ」
「どこによ?」
 抱えるように抱き上げられて廊下を進む。微笑を深くする侍女とあわてて直立する兵士の視線を浴びていたが、気にならなかった。
 もう、動きたくない。
 外に出れば引いてある馬に乗せられて、うしろにカイルが乗った。横向きに乗っていたので、そのまま体を預ける。
 少し早い心音が聞こえてきて、眠気を誘った。

 何かに、揺らされている。一定の間隔で、揺れが体に届く。それが心地よくて、目を閉じていた。
『眠ったのか――?』
 囁くような、かすかな声。
『ぇえ。よく眠っているわ』
 聞き覚えのある、二つの声。これは――
 目を開いても、かすむ視界に二人の大人がいることしかわからない。私を囲むように、二人。
 一人は、隣の椅子に座って、ゆりかごを揺らしている。一人は、その前に立って、私を覗き込む。
『ん?』
『あら? おきてしまったの?』
 二人が、こちらを見た。その顔。
『『ゆっくりおやすみ、リール』』

 はっとして目覚めた。あれは、それこそ遠い昔――
「どうした?」
 すぐ傍で、問いかける声に驚く。一瞬にして、今の状況を思い出す。
「誰か、ついてきてる?」
「ぁあ。そうだろうな。それで、どうした?」
 最近、誤魔化(ごまか)した時に聞き流してくれない。なんだかしつこくなったわねと言うと、心外だと言う。
 夢を見たのよ。夢? そうよ。はじめて、見る夢。そしてこれが、覚えている限り最初の記憶になる。

 連れてこられたのは、海だった。あの絶壁。
 どこまでも続く海が青くて、空との境界が曖昧で。その先にシャフィアラが見えるのかもしれない。
 この海に、花が育たないかと思う。せめてその鮮やかな色を、届けてはくれないだろうか。
 風が、低い草をなぎ倒す。地に着かない足が揺れる。
「下ろして」
「……」
 そこ、舌打ちしない。
 私は海を見ていた。カイルは森を見ていた。
 背中合わせで、しばらく、その場に座り込んでいた。

 夕方になって、日も暮れた。ちょっとした騒ぎが起こったのはその頃。
「エルカベイルと、リールは?」
「出かけたようだな。何か用でもあったのか?」
「いいえ。ただ、夕食は共にとりたいかと」
「聞くが、それは二人には言ってあるのか?」
「まさか」
「……」
 つまり、やってきて当然だと。まぁ料理長には何も言っていないということは、夕食は城で食べるだろうか。
 自分達二人がいないだけで、どれだけ厨房にかかる負担が減ると、よくわかっているようだしな。
「それでフレア。そこまでして何を話すつもりだったんだ?」
 おおよその見当はつくが。
「決まっているでしょう! 私は孫の顔が見たいの!」
 それこそ、一番高い確率でかわされる会話だろうに。

「母上は、何か言っていたか?」
 今度は、反対向きに馬に乗っていた、帰り道。
「あ?」
 いろいろ言ってたけど、そうね。一番は――
「孫がどうこうって、ことかしらね」
 子どもを生む喜びがどうとか、それが義務だとかなんとか。
「……だろうな。それで、」
「聞き流した」
「そうだろうな――とうぶんは、しつこいだろうな」
「産んだ息子が、こんなに歪んでいる事は無視なのかしら?」
 その言葉は聞き流されて、口付けが降ってきた。

「遅いのではなくて?」
「「――は?」」
 その王妃の声に、聞き返す二つの声。呆れて眺めるだけに留める、エルディス国王。
「エルカベイル。昨日の今日でいったい、どこまで行っていたの?」
「と、申されましても……」
「せっかく、新しい家族と私が、夕食を共にする時間を無駄にするつもりなの?」
 ぁあ。そうだった。と小さく呟きが聞こえた。リールには。
 確かに、夕食を共にしておいしくいただけそうな人物ではない。小言がうるさいから。
「まぁ。フレア、とにかくだ」
 上座に座る国王が制した。
「なんですの?」
「食事にしよう。さっきから、料理長を待たせたままだ」
 国王様には好感が持てるけど、この王妃じゃね。
 気を使っているのか、自分が食べたいだけなのか。後者のような気がしても、この国王様の提案には賛成だった。

「疲れた……」
「同感だ」
「いつも、ああなの」
「まさか」
 むしろ、普段は無言だ。
「……」
 あの広い空間で給仕に囲まれて三人が、無言で食事をする? おいしくない。出てきた物がいくら一流品だろうが楽しめない。かといって、あんなに騒がしくても迷惑だ。
「どうにかならないの……?」
 一日三食もあの状態じゃ困る。くだらない話を無視しながら食事するなんて、あきる。
「父上に言うしかないだろうな」
「よろしく」
「……面倒だ」
 そんなに真剣になってまで言う事なのね。

 暖かい場所だった。いる人間の存在は置いておいても。
 部屋があって、そこで眠る。そんな当たり前のこと、忘れようとしていたのに。

「王子妃様。ご起床を」
「……」
 これから、朝いつもそれだとか言わないわよね?
 いつまでも惰眠を貪っていると、たたき起こされた。何をさせる気か、知らないけど。

 あわただしく過ぎ去っていった。消えて、いなくなったもの達。新しく世界を回るもの達。
 そして一所に、止まる人間。所詮彼らは、空を飛べはしない。

「王子様!」
「シャーメル女史?」
 突然、執務中に部屋に入ってきた礼儀作法の先生に驚いて手を止める。
「王子妃様を見かけませんでしたか?」
「……リールを?」
 あれから、数週間。確かに、自分が執務をする時間、妃は他の勉学――と言ってもそれらしく振舞うための作法や、語学、趣味の時間だが。
 目の前の女史は、自分も作法を学ぶ時に世話になった。
「先生、“あれ”にこれ以上、なんの作法を学ばせる気ですか?」
 婚儀の時も、晩餐会も、すべて作法も礼儀も、はっきり言って教えなおす必要はない。
 さすが、シャフィアラで一位を貫いたエアリアス家の娘だけはある。
「何を仰いますか! あの方は今やこの国の未来の王妃なのですよ! 民の女性の見本となるようにっ」
「“あれ”を見習ったら、この国が食いつぶされるぞ」
 冗談ではなく。
「王子様! 王子妃様が恥をかいてもいいと言うのですか!?」
「……」
 いや、だから、まず恥をかくようなことにはならないだろう。
「とにかく! 見つけたら戻るようにお伝え下さい!」
「わかった。わかった」
 憤慨したまま、シャーメル女史は部屋を出て行った。
「……と、言う事らしいが?」
「しーらなーい」
 妙に、明るい声。
 分厚いカーテンの裏から出てきたのは、今の今まで話題に上がったその人。
「だろうな……くくくっ」
「何笑ってるのよ?」
 突然、何かをこらえきれないというように笑い出すカイル。その様子を、不機嫌そうに見るリール。
「いや、見てみろ」
「?」
 カイルが指差した方向、リールが視線で追う。そこには、唖然と口をあけたままのセイジュ、もう魂がどこかに行ってしまったかのようなレラン。
「はははは……」
 面白かったらしく、本格的にカイルは笑い出した。
 サボり癖がつくのも、予想のうち。

 また次の日、シャーメル女史が執務室に押し入ってきた。
「王子様!」
「こんどは、なんだ?」
「王子妃様が剣をお持ちに……!」
「持っているな」
「危険ですわ!」
「なぜ?」
 身を守るための短剣ならともかく、リールはいまだに二本の剣を帯刀している。いつでも。……そこを考えてあるドレスを考えたのが誰だか、思いたくないから無視していたんだが。
「何をおっしゃいますか!? 王子妃様なのですよ!?」
 一国の王妃が帯刀していると聞いて、確かに治安を疑いたくなるかもしれないが。
「問題ない」
「王子様! とにかく! 王子妃様に自粛するようにお伝えください」
「性格ではなくて、か?」
「それは目を瞑ります」
 来た時と同じように、嵐のようにシャーメル女史は去っていく。
「……取り上げたほうが危険だと、何故わからない?」
 ひたすらに黙したレランは、静かに頷いた。

 結局、シャーメル女史がリールを見つけた時には、夕食の時間になっていた。
 そしてまた今日も、騒がしい夕食が繰り返された。

 眠るために用意された寝台に上がって、寝返りを打つ。まだ当分、眠れそうにない。
 薄着の夜着に掛布がこすれるのを感じる。真っ白で、柔らかくて。ぼんやりと、目を開けたまま横を向く。
 扉が開く音に、一瞬、背中を向けている方向に視線を向けた。でも、動かない。
 少しの間が開いた。
 ぎしりと音がした。それが何かも知っていたが、仰向けになる。でもそこにあるはずの天井はなく、青銀の髪が一房、頬にかかった。
 また、間が開いた。
 ぼんやりと見ていた視界。ふと、頭にひらめいて、
「でっ!?」
 頬にかかる髪を引っ張った。
「……引っ張るな」
 つかんだまま、放さないでいると、ぴんと張っていた髪が突然緩む。
 閉じていた瞳を開けば、呆れたような、嬉しそうな顔が見える。
「……いい加減放せ」
 ちっとも困っていない声。むしろ、楽しむような。
 ふふふと笑い出した。くすくすと大きくなって、止まらない。
 また口付けが降ってきて、声が呑まれた。でも止まらない。いつまでも笑ったまま。
 ついに、囁くように二人して笑い出した。
 部屋の中に、かすかに響く笑い声。
 ――静かな、時間だった。

 いっそ憎らしいくらいに。

 青い空に、白い雲。一変して響き渡る、金属音。

ガキーン!
 剣と剣がぶつかりあう音を、耳の間近で聞く。風が通り過ぎて、頬を傷つけた。
 はらはらと見守る兵士達の視線の先。黒の護衛と青い服の妃が、訓練用の剣で切りあっていた。
 リールが、レランの隊に混じって剣の訓練をするようになって、もう幾月。
 それは最初、ほんの一言からはじまった。
「ねぇ、一緒に混ぜてよ」
「……」
 呆れた顔で、見下ろした。いきなり近づいてくるので、何かと思えば。
「だって、鈍るんだもの」
 それは、そうだろう。運動量が旅をしていた頃の半分にも満たない。だから自分は、日々鍛えているが――この娘は違う。
 礼儀作法だの、歴史だのを学ぶ時間が与えられている。気に入った物は真面目にやっているらしいが、そうでなければ王子の執務室に入り浸っている。もうなれたもので、侍女もお茶を二組用意している。
 そして、今の言葉。冗談のようだが、本気だ。
 傍目には、それが王子妃だと到底思えないような格好。侍女には間違えないだろうが、簡素なドレスを着ている。
 だが、これはあの男が作った物だ。証拠に、剣を刺す場所と、不自然にならない程度の切れ目。
 一つため息をついて、訓練用の剣を差し出した。
「……?」
「私は、暇ではない」
 今一度、お前の実力を見せてもらおうか?

「リールと、レランが?」
「そうなんですよ、王子。訓練場で切りあっているそうで」
 何してんだか、とセイジュ。
「止めに入ったほうがよいのでは?」
 たまたま居合わせたオークル。
「これ以上ない見世物だな」
 立ち上がって、歩き出した。

 体力も体格も圧倒的に違う。ただカイルのうしろにいるだけのお飾りじゃないと知っていても、現実味がない。だからと言って、油断した、のかな。
ガキッ!
 鈍い音。重苦しい一撃を受け止めて、すぐに剣をすべらせて離れた。痺れの残る腕、近づいてくる足音。
 一呼吸置く間もなく、走り出した。
キィン!
 狙って、弾かれた己の剣。顔の真横を跳んで言った剣に目もくれずに、腰に刺してある剣を引き抜いて相手の剣を手から叩き落した。
 相手が、背に背負ったままの自身の剣を引き抜いた。
 ――まずいと、思った。さすがにその剣の攻撃は、重すぎる。
 早々に、仕掛けないと、と考える暇を、もつ暇なんてない。体が、動いた。
「十分だろう?」
 はっとした時には、レランは剣をしまっていた。空の下に響いていたのは、ただ一人、自分の荒い息使い。
 あごの下を、右の手の甲で拭った。緊張が解けたのか、体が酸素を求めた。背に流れていたのは、冷や汗。
 相手の手加減がなかったこと、それは、きちんと私の相手をしているから。だからこそ、無数に傷を負うことになっても、カイルは何も言わなかった。
「そろそろ、言い出す頃だとは思ったがな」
「当然でしょう」
 王子妃(この地位)じゃ、一人で勝手に出かけることすらままならない。表向きには。だから、外に走りに行くのもやめた。とりあえず、今は。
「で、どうなんだ?」
 カイルは、自分の護衛を振り返った。一瞬戸惑ったあと苦笑したように見えたレランは、それでも言った。
「明日、午後の初めに、ここに」
「わかった」
 手の痺れに、鍛えなおさなきゃ駄目ねと思いながらも、しっかりと頷いた。
「今日の訓練はここまで」
 その一声に、呆然としていた兵士達が動き出した。レランは、着替えるのか自室に向かった。
 私は、振るえて地面に座り込みそうな所をカイルに支えられていた。
 危なかった、もしあのままだったら、私は毒を持ち出していただろうし、レランは本気で私を殺しにかかっていただろう。
 ――殺されるかと思った。

 昨日の格好は、ズボンの上に長いワンピースを着ているようなもので、紐を解けばスカートのふくらみはなくなり、切れ目から足が覗くようになっていた。肩口は膨らんでいて、でも肘から先にかけて、腕にぴったり合うようになっていた。
 今日は、藍色で、軍服に近い型の服。それでも襟が丸かったり、袖口と裾はレースで飾ってあったりと、細かい。ズボンには大輪の花が刺繍してあった。――どうせぼろぼろになるけどと言うと、むしろそれで構わないと言われた。
 訓練は、最初は体力をつけるために走り、体操や反復運動から入った。
 それから、二人組、もしくは三人一組で剣を構え交じり合う。私は、レランでなく隊の一人が相手になった。
 はじめは動く事ができなかった相手も、こちらが容赦ないのと鋭いレランの視線を受けて真面目に切りかかってきた。その、型にはまったような剣を受けるのも久しぶりだった。

「しかし、ずいぶんと寛大だな」
 反対すると思ったのにと、カイルはレランに問いかけた。
 レランは、立ったまま皆の様子を窺っていた。近づいてくる主の気配を感じながら。遠めに、切りあう娘と兵士。他の場所でも幾人もの兵士がいる。
「あの娘の剣は、兵士として教育され、剣を握る所からすべて型にはまった剣ではありません」
 騎士はこうであるべきである。握り方は、試合の申し込み方は。すべて、兵士には叩き込まれる。
 だけど、
「世の敵はすべて、対等なものではありません」
 名を名乗るわけでもない。まして、平等な試合を仕掛けてくるとも限らない。
「あの娘の剣は“生きるため”の剣です」
 生きるためなら、なんでもやってみせる。
 この国は、平穏だ。民にとって国にとってよいことでも、兵にとっては悪いとも言える。
 実践の経験が少ない。形通りの動きしかない。だがいつでも、どこでも、相手が理に叶った方法で仕掛けてくるとは思わない。
「多少は、刺激になるでしょう」
 視線の先に、舞い上がる土の煙と風によって、姿をくらました娘の姿が見えた。
「まぁ騙し討ちに関しては、上手だろうな」
 そう言っては身も蓋もないかと、カイルはふと呟いた。
 それから、数日。いつも決まった時間に抜け出す王子妃を、探す影は――
「王子妃様ーー!」
「……ばれたっ!?」
「ばれないわけないだろう」
 遠くから聞こえてくる声に、すざっと飛び去ったリール。呆れて、カイルは言った。
 リールは、あれあんたいつの間に来たのよそんなに暇なの? とでも言いたそうな視線を投げかけて、言う。
「じゃ、あとよろしく!」
 前も見ずに、走りだそうと――
「リール!?」
「ぅわきゃ?!」
 とても暖かい物に、抱きとめられていた。
「王様?」
 見上げて、目が合う。
「元気だな」
 いきなり、飛び込んでくるな。
「……えーーっと~」
 言いよどんだリールに、国王が首を傾げた。
「王子妃様!!」
 ぎくりと、身を震わせて、さっと国王の後ろに隠れた。
 国王は一瞬リールを見て、走りこんできた女性に声を掛ける。
「シャーメル、いったい何事だ?」
「陛下! 王子妃様がいっつもいっつも礼儀作法の時間を抜け出されるので!! 探しに参りました!」
 ぁあ、その時間なのか。なんでも訓練場に現れるらしいから、覗きにきたんだが……
 ちらりと見れば、その噂の娘はあさってを見ていた。こちらに、興味はないらしい。
「リール、シャーメル女史にご挨拶は?」
 いたずら小僧のように笑って、言った。するとリールは、にこり……いや、こちらの意図を察してにやりと笑った。
 すっと体の影から抜け出して、笑った。
「ごきげんよう。シャーメル女史」
 膝を折って、あたかもそこにドレスの端があるように指でつまんで。頭を下げる。
 服装と、さっきの笑顔に目を瞑れば挨拶は完璧だ。
「……」
 シャーメル女史は、ぽかんと口を開けたまま固まった。
「完璧だな。シャーメルの指導の賜物だろう?」
 国王が、顔を上げたリールの肩に手を置いて言う。
「……っいえ、そんな……」
 国王の思いもよらない言葉に、しばし呆然としていたがかろうじてそれだけをかえす女史。
「それで、何しにきたんだ?」
「そうなのです! その王子妃様の態度をいつもそうさせようと……」
「気持ちはわかるが、ここはリールの家だから多少は……」
 多少か? と、カイルの口が言っていた。
「そういう問題ではありません!」
「場をわきまえてもらえれば、問題ないぞ」
「陛下は甘すぎます!」
「……そうだろうか」
 国王が息子の嫁に甘いことなど、周知の事実だ。とくに、リールに関しては目を瞑ることが多いらしい。
「そうきりきりする事でもなかろう。基本はできておる。それに応用も」
「ですが……」
「何か粗相があればお主がきっちりと指導してくれるのだろう?」
「もちろんですわ陛下!」
「ならば、今は問題なかろう?」
「……わかりましたわ、陛下。ごきげんよう」
 言いくるめられたとわかっていたが、シャーメル女史はその場を去った。何かあったらきっちりとお時間いただきますと、言い残して。
「だ、そうだ。まぁとちらないようにするんだな」
「わかってます。あの人、……方。しつこいのよね」
 女性は、常に男性に敬意を払うべきです! だの。歩く速度はもっとゆっくり! だの。常に敬語で話せだの。
「まぁ少しは、聞き入れてほしいものだがな」
「これからは、いつもこの口調でお話ししますわ。 陛下?」
「そんな背筋が寒くなりそうなことはいらないんだがな」
 国王が、リールの髪を撫でた。そのまま頭を撫でるように。愛しむように。
「父上、こんな所で時間を売っている暇があるのですか?」
「お前はどうなんだ? ナクテスが探していたぞ?」
 追い払うつもりが追い払われる。舌打ちして、カイルは城内に向かった。
「誰だって?」
「ぁあリール、会いに行ってくるといい」
「?」
 国王に言われるまま、剣を置いてカイルを追った。まぁ行き先はわかる。

「ただ今、戻りました」
「よく帰ったな」
「……王子」
「なんだ」
「……(ぅおい、なんだあの棘は!?)」
(知りませんよ。対象は私ではないようですし、問題ないのでは?)
(そりゃお前が睨まれている訳じゃないからいいだろうよ!)
「お前達――」
 聞こえているぞと、カイルが言うより先に、扉が開いた。そりゃぁもう、盛大にバタンと開いた。
 ノックもせずに入ってくるなんて、いったい誰だと二人の護衛の視線が映る。その手が向かうのは武器。
「「「……」」」
 眼鏡をかけた男と目があった。紫色の髪が、四方に飛び出すように立っている。閉じてへの字にあげられた口、驚いて私を凝視する紺色の瞳。
 もう一人は――
「お初お目にかかります“王子妃様”。オークル・ファッションと申します」
 リールと目があった瞬間、オークルは膝をついた。
「――っナクテス・ディムです」
 完璧に出遅れた……と焦りながら、ナクテスが続いた。
 目の前に膝をつく男二人を見て、リールはカイルに声を掛けた。
「誰?」
「俺の護衛だ」
「ぁあ。“まだ”いるって言ってた」
「これで最後だ」
「そう」
 リールはまだ膝をついたままの二人を見た。
「立ったら?」
 そう言いながら、二人の横を通ってカイルの横に向かう。
「知っていると思うが、リールだ」
 自身を紹介する挨拶に、シャーメル女史仕込みの笑顔で答えてみた。それを見たカイルの顔が引きつった。なんでよ?
「……ずいぶん、多いのね」
「ぁ? ああ。もう手足の変わりだ。あと妃の護衛もすることになっている」
「誰の?」
「お前の。だがこの二人は、主に国内の情勢の調査に向かわせている」
「行かされているのね」
 この一言に、ナクテスが拍手を送っていたことは想像がつくだろう。
「まぁそんなわけだ」
 あっさりと、カイルは聞き流した。
 どんなわけでよ。と、リールはため息をついた。護衛が何人いようと目を瞑るけど、監視が多いんじゃ困るのよね。

 そしてまた、次の日。
「王子妃様ーー!!」
「きた……」
 がっくりと肩を落としながら言うと、レランの表情が少し動いた。
「来る予定だったのか」
 そうだろうなと、カイル。
「そうなるだろうと思っただけよ」
 今日の朝から窓を飛び降りたのが問題かしら? それだけかとカイルが突っ込んだ。
「王子妃様!」
「はい、何か?」
 逆らうのは労力の無駄。無駄無駄。と心に言いきかせて、おとなしく話を聞く。
「昨日の――」
 昨日? 何かしたかしら? ――何もしでかしてない日なんてないだろうと、カイルなら突っ込んでいる。ちょっと黙れ。ん? いない。
「リール! ぁあいたわ」
 と、遠くから声をかけられた。振り返って、振り返る。隣にいたはずのカイルの姿がもうない――逃げたわね。
「「王妃様?」」
 今度はなんなのよ? と首を傾げた。シャーメル女史も同じく不思議そうな顔をしている。
「もう、今日はお茶を一緒にしましょう。なかなか来ないのだから」
「そんな予定は……」
 ない。あったとしても認めない。
「あったでしょう? やぁねぇ」
 わざとらしく扇で口元を隠す王妃。
「さっいくわよ。今日は外に用意させて見たの」
「おっ王妃様!?」
「そうだわ! シャーメル、あなたも一緒に」
「いえ、あの今――」
「それがいいわ! さぁ行きましょう!」
 何か言いかかったシャーメル女史の言葉は無視して、王妃は私と女史の腕をつかんで(逃がさない)歩き出した。

「さぁ。これで全員ね」
 急遽増えたシャーメル女史のための準備が整って、席につく。丸いテーブルに四人。
 左隣には王妃で右隣はきっと王妃の友達。正面はシャーメル女史……え、何これ。尋問配置?
「はじめまして王子妃様。ロダディア・アニバスと申します」
「アニバス?」
 どこかで聞いたような……どうでもいいような。
「息子が、迷惑をかけていなければいいのですが」
 ぁあ、“あれ”か。しかし、口調と見た目に差のある人ね。まぁ王妃の友達だとすれば……
 頭の中で考えている事は黒いのに、お茶会(と称した茶番)が開始する。
 そう、会話の内容は詠めている。
「それが、うちの息子達ときたらいい歳して結婚もしないで……」
「……」
「あらまぁ。困った物よねぇ」
「ぇえ、早く結婚して、元気な子どもを生んでもらいたいものだわ」
「そうよねぇ」
「安心した老後と……可愛い孫を……」
「ほしいと思うわよねぇ。――リール?」
「……(知らん)」
 と思いつつも、無視するわけにもいかないらしい。ちらりとシャーメル女史を見れば……われ関せず……ちっ。
「綺麗なお嫁さんなら、用意できなくもないのですが」
「でも、やっぱり本人の意思がねぇ」
 ものすごく、残念な声でもある。
「……」
「そこを主張していて、今があるのですわ王妃様」
「そうよねぇ」
「……」
「やっぱり、次は女の子がほしいわぁ」
「いいわねぇ~お嫁さんもいいけど、可愛い女の子。ね、リール」
「……」
「リール?」
「何か、王妃様」
「何か言ったらどうなの?」
「言いました」
「もうリール! あなたのことなのよ!?」
 リールは「余計なお世話だ!!」と、叫びテーブルをひっくり返した(想像の中で)。
 しかし実際は、シャーメル女史に対する嫌がらせのように、優雅にお茶を飲んでみた。
 ゆっくりとした動作でカップを戻して、一言。
「あら、わたくしの話でしたの?」
 リールの心の中は、“怒らない、怒らない”と“つくり笑顔、つくり笑顔”と言う呪いのような言葉が繰り返されている。
「そうよ、何を言っているの」
「てっきり、セイジュ……さんのお話かと。あの方は、(見た目は)よい方ですし、(さぼり九割残り一割で)仕事もされていますし、そういえば、噂一つ聞きませんね」
 いや、正しくは、“特定の一人”といい仲になったという話は聞いたことない。
「そうでしょう!? このままじゃ、どうなってしまうのかしら」
「さぁ?」
 そんなことに興味はない。だいたい、大きなお世話だ。
 というか、不特定多数と日々噂の的になっていることは無視していいのか?
「そんなことよりもリール!」
(そんな事? 本音が出てきたわね)
 脱線するのは許さないらしい。しかも、アニバス家の奥方は聞いていない。
「――王妃様」
 とそこに、今の今まで黙っていたシャーメル女史の声がした。
「? シャーメル?」
 なんでいるのとでも続きそうな、王妃の問いかけ。自分で呼んだんでしょ!
「ああ! で、何かしら?」
「子は、授かり物です。いずれ時がくれば自ずと。そう強制することでも、せかす事でもありません。生まれてくる子が哀れになるだけです」
「……シャーメル、あなた確か、」
「出すぎたことを申しました。王妃様」
 言葉を、ピシリと遮ったシャーメル女史。しばらく沈黙した。
 結局、話がわからないリールは、疑問符を浮かべるだけだ。が、目の前の菓子をつまんでいた。
 気がそがれたのか、それからすぐに王妃はお茶会をお開きにして城内に帰った。アニバス家の奥方も。
 そして、残されたのは――
「王子妃様」
「……はぃ?」
 え、何?
 にこりと、シャーメル女史がほほ笑んだ。
「お時間、ありますわね?」
 説教は忘れられなかった……

「王子妃様」
「はい」
 すれ違った大臣に呼ばれた。
「王子妃様!」
「はいはい」
 勝手に出かけたから、侍女たちがあわてている。
「王子妃様」
「なに」
 兵士が一人、声をかけてきた。
「王子妃様ーー!!」
「………」
 シャーメル女史の声に、無言で、逃げた。

 いつの間にか、その呼び名に慣れきっている自分がいる。
 元々、名ではない名で、呼ばれることに慣れているからだろうか。いくつもの呼び方、偽名。敬称。略称。もう、慣れてしまった。

「リール?」
 そしてこいつは――
 うしろから抱きすくめられて、身動きを封じられる。
 肩と首筋に、その長い髪がかかった。
「仕事は?」
 そういうと、一気に不機嫌になる。
「――っ」
 噛み付くような口付けが、首筋に振って、そして離れた。
「ほどほどに、な」
 レランと、セイジュ(もとからいない)がカイルの護衛を離れて、隊の訓練に行く時間。
 執務室に向かうカイルと、数人の兵士を見送って――って、黙ってその場にいないでくれる!? 最悪。
 あーもうと呟きながら、訓練場に向かった。もちろん、服の襟を立てておくのは忘れなかった。

 慣れきってしまっている。朝目覚める事、夜眠る事。自分の部屋があって、そこで暮らす事。“家”があること。すべて。
 本当に、心地よくて、暖かくて、だからこそ遠ざけた物なのに。
 どす黒く汚れた手に、相応しくない――

キィン!
「待て」
 兵士に剣を弾かれて、頬に血が溢れた。はっとした時には、もう遅い。
「何を考えている。目の前に集中できないなら――」
「もう一度、お願い」
「――焦らなくていい」
 それはレランが、国王に言われた言葉。今は、なぜそう言われたのかわかるからこそ、いえる言葉。
「……久しぶりね」
「?」
 そうだ、私は――
「ぉいっ!?」
 ふらりと、倒れこんだ。
 ――もう、疲れた。

「倒れた!?」
「はい、どうも熱が――王子様?」
 侍女が説明する頃に、王子はいない。

「リール!?」
「……王子様」
 部屋に押し入ってきた王子に、王家の主治医は頭を下げた。うしろであわてる助手には平気だと言った。
「どうなんだ?」
 いらだちが混じって、低い声。
「環境の変化と、これまでの疲れや、心労による発熱かと。気が抜けたのでしょうな」
 いい傾向だと、主治医は言った。
「むしろ体調を崩さないほうがおかしいですから」
 それが、普通だと言う。だとしても、だ。
「心臓に悪い」
「普段は、ほとんど病にはかからない方で?」
「当たり前だろう」
 エアリアス家(薬師)なのだから。と言う言葉を、飲み込んだ。
「数日、安静にしていれば治ることでしょう。ただ」
「なんだ?」
「少し、熱が高いので、今夜は気をつけて下さい」
 見ると、寝苦しそうな荒い息に、流れる汗。主治医のいる反対側に回って、手を伸ばした。額は、熱かった。
「わかった」
「よろしくお願いいたします」
 主治医は、隣にいることを止めなかった。誰も、止められる人はいない。

 日も暮れて、空が泣くように雨が降り出した。しとしとと静かに。まるで泣く事を許さない誰かの、代わりのように。

 目を開けば、見慣れた天井。そうだ、さっき。
「なさけない――わね」
“この温もりが、消えてなくなるのが怖い”なんて。
「おきたか」
 目の前に顔が出て、額が当たる。
「……もう少し寝ていろ」
「もう寝すぎよ」
 本当に、変な気分だ。熱で倒れた事、今の今まで起きることなく寝ていたこと。
 近くに人の気配があると、眠れない。それを知って、この部屋に寝ているのだろうか。
「うつるわよ」
「それも一興」
「馬鹿じゃないの?」
「……」
 まるで、笑顔が顔に張り付くように、カイルの動きが止まった。
「……いじけないでよ」
「まぁいい。飲むか?」
 喉が渇いている。のろのろと起き上がれば着ている服が重い。ひどく汗をかいたようだ。
 少しだけ開いているカーテンの外は真っ暗。部屋はテーブルの上にあるランプ一つで照らされている。
「ほら」
 コップに注がれた水を飲んでいると、新しい夜着が差し出される。
 着替えるのが面倒で受け取らないでいると、勝手に服の紐が解かれて行くのでとりあえず殴った。

 次の日も、どことなく体がだるく重かった。熱っぽさを認められて一日休みとなった。――のはいいんだけど……
「もうリール、あなたはこの国の女性の模範となるのに!」
 王妃は、私の部屋にお見舞いと称してやってきて、入り浸っている。……むしろ病気になりそうだ。
「王妃様、王子妃様」
 会話するのも面倒なので黙っていると、部屋に入ってきた侍女が声をかける。
「なにかしら?」
 まくし立てていた王妃が振り返った。
「陛下がお越しです」
(また増えた……)
 リールはがっくりと肩を落とした。
 すぐに、国王が部屋に入ってくる。
「フレア、ここにいたのか」
「あなたこそ、こんな時間によいのですか?」
「思ったより、謁見が早く済んだのでな。そうだフレア、今日はグライン家の奥方が来ているぞ」
 実は、早く終わらせたなんて、言わない。
「まぁ。それじゃ、リールまたね」
「は、い」
 危うく、早く帰れと言うところだった。
 来た時と同じように侍女たちをたくさんうしろにつけて、王妃は去った。嵐がさった。
「騒がしいだろう。休めるとは思わないが、だいぶいいようだな」
「おかげさまで」
「――何か、ほしいものはないか?」
「は?」
「そうか、やはり“あれ”が来るほうがいいか?」
「……王様」
「そう怒るな」
「怒らせたのはそちらです」
「と言っても、今日は忙しいだろうから、遅くなるだろうな」
 聞いてない。
「陛下!!」
 こんどは予告なしに、扉が開かれた。本当に、今日は騒がしい。
「いきなりどうした。シャーメル」
 国王は振り返って、シャーメル女史と視線を合わせた。
「どうして王子妃様のお部屋にいらっしゃるのですか!?」
「見舞いだ」
 ぁあそうだと、りんごが手渡された。そのまま食べようとして、やめた。
「女性の部屋なのですよ!?」
「娘だろうに」
「そういう問題ではありません!」
 ぎゃぁぎゃぁと騒ぐシャーメル女史、あしらう国王。妙な光景だと思う。
「そう騒ぐな、病人の前だぞ」
 はっとシャーメル女史は口をつぐんだ。
「見るといいリール。お前が倒れたと聞いて、みな、心配でいても立ってもいられなくて押しかけてくるのだ」
「……」
「そういうものだろう?」
 それが――
「もう、知りませんわ!」
 そう言って、シャーメル女史は部屋を去った。私は緑色のりんごにかじりついて、言う。
「ねぇお父さん」
「なんだ?」
 振り返った顔が笑っている。――いいわ。言ったのはそっちなんだから。
「一緒にいて」
 困らせてやる。
「……そういえば、病人の傍にいたことなどほとんどないな」
 しばらく沈黙した後、国王はそう言った。そのまま寝台の端に腰掛けて、手を伸ばして掛布を上げてくれる。
「カイルは?」
「あれは、そうだな。だいたい熱が出てうめいている所を見て、帰ったな」
 昔は、今ほど要領がよくなかったから、政務に時間をとられた。
「王妃は?」
「フレアか? 侍女が付き添っているならな、必要ない。で、何をすればいいのだ?」
「知らない」
 奇妙な、沈黙が下りた。
「シャフィアラのことを、聞いてもいいか?」
「攻め込まないならね」
「これ以上領土はいらん」
「薬師の話は、しないわよ」
 “薬師”の、話は、ね。
「地図もそこは白紙か塗りつぶされるような孤島の島、シャフィアラ国。知りたいと思うのが普通であろう?」
「ふぅん。何が知りたいの?」

 いつもより、書類が多い気がする。いや多い。運んでくる兵士に問い詰めても知るわけもないだろうが……
 ちらりと、目の前の書類から視線を外して紙の束を見つめる。
 どうみても、国王宛の書類が混じっている。あの父親は、時々、気まぐれか鍛えるつもりかこちらの実力を測ろうとする。書類を混ぜておく事など、たまにあることではある。
 しかし、今日は多い。
「どういうことだ」
「王子? 何かありましたか?」
 レランが、聞いてきた。
「何もないわけないだろう! なんだこの量は!」
 今日は、早く済ませるつもりだったのに、だ。
「確かに、多いですね」
「いったい父上は何を――」
 そこまで言って、カイルは止まった。
「王子?」
ザン!
 と思えば、壁に短剣が刺さるいい音。
「ひっ!?」
 あくびを噛み殺していたセイジュの、丁度、頭があった場所。
「おい」
「はい? ぁあなんですか?」
 あぶねーあぶねーとセイジュは呟いていた。
「謁見室へ行け」
 この城の中に謁見室はいくつもある。一番でかい場所は王が謁見を行なう場所。使わない日はない場所。今日謁見の予定のある場所。
「王が謁見中じゃないんすか?」
「だから、それを確かめに行け」
 あーなるほどと、セイジュが部屋を出た。
「王が不在なのですか?」
「不在ではないだろうな。だが、ここにあるのは父上宛の書類ばかりだ」
「では、王はどこへ?」
「……」
 どこにいるかわかるからこそ、逆にいらだつ。

「というか、病人は寝かせるべきなのだろうな」
「世間的にはね」
「寝ないのか?」
「眠くないから。いいんじゃないの?」
「そうだな――さて、そろそろか」
「?」
 腰を上げた国王。なんのことだかわからない。
「そろそろ、あれも私がいないことに気がつくだろうからな」
「サボったんですか?」
 政務を。
「違う。押し付けてきただけだ」
「……」
 それじゃ怒るでしょうね。
「よく休め」
 そう言って頭を撫でて、国王はさった。それから少し立って、カイルがやってきた。
 ……だから、騒がしい。

 国に帰ってくるのは、久しぶりだった。いつになったら帰れることかと心配していたが、案外早かったと思える。
 王子と、あの小娘。
 人々が祝福する中、あの関係は不自然だと思ってしまったのは、なぜだろうか。
 ……そうだ、不自然だと思うのは、あの娘が――

 少し風が吹いて、窓のカーテンをなびかせた。王子は、執務室の机に座って、ずっと書類を読み、印を押している。この光景が、当分続く物だと思っていた。あの頃とは、かなり違う。だがもう、この光景が中心に生活が回ってほしい。
「っと」
「どうかされましたか?」
「昨日、頼み忘れたな」
 処理した種類は、物によっては家や各機関に届けなければいけない。いつもは、機嫌にあわせて運び手に頼むのだが――
「やはり、腕が鈍ったな」
 剣の腕は上がったが、ペンのほうは逆に落ちる。当然といえば当然の結果だ。旅に出ていて書類の整理などしてられない。
「届けます」
「頼んだ」
 レランに書類を手渡して、部屋を出る背中を見送る。こんなことで、ふと、ぁあ日常だと思ってしまった。

「あれ王子? レランは?」
 ノックと同時に入ってきて言う事が、それか。
「今出かけている」
「そうなんすか」
 そう言って、セイジュはカイルの前にある長椅子に寝そべった。
「あ~~疲れた……」
「隊の訓練をしてきただけだろうに」
 淡々と、カイルが話しかける。
「俺がいなくてもみんなやってますよ」
「いなくて当然にしたんだろうが」
 また、書類の山から一枚手に取る。
「まぁまぁ、いいじゃないですか」
 そう言って、セイジュは寝た。カイルはため息をついた。まさか、また、この見慣れた光景を目にすることになるとはな、と。
 しばらく、部屋の中にペンを走らせる音と、印を押す音だけが響いていた。そこに、ふわっと、風が吹きぬけた。
「いい風だな」
 書類に没頭していた頭を、上げる。日が傾いている。
「まだ、かかるな」
 レランが向かったのは、王都のはずれの史書管理塔。夜になる前には、帰ってくるか。
「――ぉい」
 ぽいっと、机の上のゴミを投げつけた。
「? なんすか?」
 眠そうな目をこすって、セイジュがおきた。
「運んどけ」
 書類の山を指した。
「終わったんですか?」
「ああ」
 はいはいと言って、セイジュが書類を運んでいく。レランなら同時にお茶の準備をさせるところだが、どうだか。
 椅子から立ち上がって、カーテンを開く。少しだけ開いていた窓を全開にして、ピタリと止まった。
 驚いたまま、手を伸ばす。同じく伸ばされた手を取って、引き上げる。
「丁度いいわね」
「そうだな」
 服の埃を払うようにして、次に手を叩く、その女性。
「何をしている」
「逃亡」
 窓の下から、シャーメル女史の声が聞こえてくる。
「相変わらず、か」
「そうね。そっちは?」
「今、一段落した所だ」
「そう。誰もいないのも、珍しいわね」
「そうだな」
「ま、丁度いいか」
 何か納得したようなので、次の行動を待つと、セイジュが眠っていた反対側の長椅子に寝そべった。
「おやすみ」
「ああ」
 そう言って、すぐに眠りにつく。寝息が聞こえてくるまで、そう間もなかった。
 傍によって、外していたマントをかけてやる。……何しにきたんだ?

「王子~なんでもこれを……?」
 また、ノックと同時に部屋に入ってくるセイジュ。それを睨みつけた。
 セイジュも、長椅子に眠るリールを見て止まっていた。
「それがなんだ」
 抑えた声で聞く。はっとしたようにセイジュは顔を上げて、静かに扉を閉じた。
「これを、明日までにお願いしたいそうです」
「なんだ……ぁあ、南の診療所の件か」
 そう言って、また机につく。おそらく急いで用意されたであろう書類。その、走り書きを読む。
 カイルが書類に集中したのを見計らって、セイジュは壁側に立った。
「――もう寝ないのか?」
 からかうような、主の声がする。その意味と含み。こんな行動、自分らしくないのもわかる。だが、
「そんなこと、できませんよ」
 それだけ、言った。
 部屋に響くのは、静かな寝息と、紙にペンを走らせる音。

 日暮れと言うよりは、もう暮れた日を見送る。すぐに夕食の時間になりそうなころ、扉をノックする音がした。
「入れ」
 入ってきたレランの持つ盆の上、乗っているお茶のカップが二組あった。

 人の気配に目覚めると、すごい目で睨まれていた。レランに。まるで、どこでもよく眠ると言いたげな視線。――悪い?
 カイルが正面に座って、暖かいお茶を飲んでいる。見れば自分の分らしき物まである。
 コクコクと、ぬるくなったお茶を飲む。すると、侍女が夕食の準備が整ったと呼びにきた。
 王と王妃と同じ食卓につくのも、なれてきた。そう、いつも――
「そうよ! 今度夜会を開きましょう」
「ご自由に」
「ご勝手に」
 突拍子もない事を言い出すことにも。
「エルカベイル! リール! あなた達も出るのよ!」
「「遠慮します」」
「だ、そうだ。中止だな」
「あなた! なんてことを!?」
「開くのは構わないが、誰を招待する気だ?」
 夜会は延期になった。中止にするといいのに。

「ん~……ん?」
 お風呂に肩までつかり、大きな浴場を見渡す。だいぶ前にぶち壊した装飾が元通りになっていた。これも税金かと思うと、もったいないわね。
 壊さなければいいだろうにと、誰も言わない。

「よいしょっと」
 部屋の本棚にならぶ歴史の本をとりだして、寝台の傍のテーブルに乗せる。そのまま寝台に寝そべって、一冊を読む。
 煌々と照らされた部屋の中、紙をめくり寝返りをうつ。そうしてしばらく、本を読んでいた。

「……? リール?」
 食事のあと急に政務が入って、また執務室に逆戻りだった。やはり、父上の仕事が回されている。どうしたものか。
 夜も更け気って、このまま執務室で寝るよりはと寝室に帰った。寝室の隣の部屋の続き間は、侍女たちが控えている。しかし、この寝室には、部屋の主がいるうちはよほどのことがない限り近づいてこない。控える侍女に声を掛けてから、寝室に向かった。
 部屋の明かりがついているので、妙だと感じながらも扉を開けた。そして、
「そのまま、か」
 どうやら、本を読んでいたまま寝入ってしまったようだ。右を向いて、本を支える腕は力を失い、手は本に載っている。掛布は、足に絡んでいる程度だ。
 また、風邪をひくきか? 病み上がりだろうに。何をしているのか。
 近づいていって本を奪い、開いているページに栞を挟む。煌々と照らされた灯りを順々に消して、残したのは一本の蝋燭が入っているランプ。
 火が燃える音が聞こえる。
 寝返りをうつ体を、しばらく見つめていた。それから頬に口を寄せて口付けした。
「おやすみ」
 その声は、夢に届くだろうか?

「――ぁ?」
 何か、夢を見ていた。それが動いた瞬間に目覚めた。でももう、夢で何を見たのか覚えていない。
 いつの間にか消されていた灯りに代わって、外から差し込む光が部屋の中を照らしている。
 起き上がって、自由にならない体の一部。腕がとられている。
 一瞬、揺さぶって起こしてやろうかと思って、やめた。深く寝入っているのと、疲れの見える顔。距離が近い。
 そっと耳に口を寄せた所で、
コンコン
「……誰よ?」
 のろのろと起き上がって、寝台を下りた。向かうのは隣の間に繋がっている扉。
 ノックされたあと、開けるのを躊躇するような間。その間に、扉の前まで来て――
がちゃ
 向こうから、開かれた。
「「………」」
 目の前には、レランがいた。いつもの代わり映えしない黒い格好で。そのうしろには三人の侍女と、二人の兵士。兵士達はあわてて、目を逸らし、侍女はレランを止めようとしたままの格好で止まっている。そういえば、夜着のままだったりもする。
「……何?」
 なんだか、自分から話さないと止まったままっぽいので聞いてみた。
「王子が、この時間に起こせ、と」
 レランは、顔を引きつらせたまま言った。どうやら、私が起きていて扉の前にいるなんて、想像してなかったらしい。
「起こせばいいのね」
 そう言って、扉を閉じた。
 てくてくと寝台に戻る。さてどう起こしてやろうかと、思案する事数秒。とりあえず、枕を引き抜いてみることにした。
「えいっ」
 効果音つき。
 がくりと、カイルの頭が落ちた。効果絶大? と、思ったが、動く気配なし。
「ちょっと~? おきた?」
 屈んで、覗き込んだ。その時、伸びてきた手によって引き寄せられた。
「っ!?」
 ぼふっと、柔らかい布に顔から突っ込む。
「~~何するのよ!」
 がばっと、起き上がる。
「眠いんだ……しずかに」
「レランが来てるけど?」
「もう、そんな時間か?」
「知らないけど?」
 ひたすらに眠そうなカイルが、起き上がる。そのまま私を見て、一言。
「元気だな」
 そりゃぁ。昨日あれだけ寝ればね。
「朝からなんなの?」
「視察に……そうだ」
 やな予感。
「一緒に来い」
 昨日アズラルがおいていった服を着ると、なんの嫌がらせかまたお揃いの服だった。
 冗談じゃない、着替えると言ったのに、そんな暇はないと無理やり連れて行かれた。扉を開けた時のレランと侍女と兵士の反応ときたら……もう最悪。

「で、どこに?」
 馬にゆられながら、うしろにもたれかかる。馬を歩かせて、どこかに向かっている。朝だからか、馬を疾走させることはない。
 脇にはレランがいて、うしろにも兵士が数人。
「今日は南だ。診療所の件もあるから、丁度いい」
 まぁ、勝手にして。
 と、思ったのに簡単にその南の診療所の話をされた。聞いてないのに。

 目的地に着いたらしく、左記に下りたカイルの手を借りる形で馬を下りる。その拍子に、一番上に羽織っていた茶色いローブのフードが落ちる。
 スタンと地に足をつくと、建物から出てきた人影が声を上げた。
「お嬢様?」
 驚いている、その声。聞きなれない声に、振り返る。初老の男性が、呆然と立っていた。何、その、信じられない物でも見るような視線。
「どちらさまですか?」
「妃だ」
 カイルの答えに、男性は絶句した。揃いの服を着ているので、なんだろうかとは思ったが、まさか。
「はじめまして、リールです」
 またまた、シャーメル女史仕込みの挨拶をしてみた。そこにドレスもないのに。って、なんで口を開けたまま固まってるのよそこの兵士。
「差がありすぎだろうに」
 ここに来るまでの態度と、今ほほ笑んで挨拶をする態度に。
「だって、ねぇ」
 どっちも私だ。
 怪訝な顔をする男性に、レランが話しかけた。
「お気になさらず。まともな神経の持つ者には、勤まらないというだけですので」
「どういう意味だ?」
「どういう意味よ?」
 その言葉に、同時に問いかけた。すると男性は、何か納得したようだった。だからなんでよ。
 ここを診療所にしたいと言う男性は、ダンと名乗った。

 カイルとダンが会話を交わし、書類を眺めていた。なんどか暗くなり、それでもとりあえず納得いのいく状態になったらしい。
 それからまた城に帰る頃には、もう朝食の時間はとうにすぎていた。
 城に帰って、広い食堂で二人食事をする。静かでいい。朝からあのキーキー声は聞きたくない。とそこに兵士がやってきて、カイルに耳打ちする。そのまま途中の食事を置いてカイルが席を立った。そして、リールが食後の果実の皿を二つ空にしても、帰ってこなかった。ので、
「まぁ、いいか」
 リールは席を立った。
 今日は、歴史と美術の講義だけだ。

「さて、先日の復習をしましょうか」
「よろしくお願いします。ノーザイス先生」
 歴史は、好きな時間。

 お昼になって、食堂に行けば誰もいなかった。なんだかんだ言っても、王も王子も、王妃も、多忙だ。暇なのは私だけ。
 もくもくと食べていると(それでも大量。朝より食欲が戻っている)、兵士が入ってきた。
「――中止?」
 午後の授業? 絵画と彫刻の授業だけどね。作るのではなくて、見るもの。たまに芝居に行く事もある。
「はい。なんでも、知人が急病だそうです」
「……突然ね」
 午後、全部空くのか、暇だーー
 歩くたびに、侍女が何人かついて来る。振り切って外に行ってもいいけど。今日はしつこいのよね。
 のろのろと城の中を歩き回る。扉を潜ったら、外に出た。
 いかにも、計算して作られた風景。城の庭。芸術性を求めるなら、すばらしい“作品”になるであろう事はわかる。でも、“自然”そのものとはまるで違う。
 それでも、それが芸術だと評価される。
「別に、いいか」
 ただ、ひどく、シャフィアラと違うだけ――
「未練がましいわね」
「何が?」
 聞こえてきた声に、振り返りもしなかった。すると座っていた長椅子をうしろから乗り越えて、カイルが隣に座る。
 いつの間にか、侍女たちがいなくなっている。兵士達も。物陰から窺うように、レランがいた。
 長椅子に座って、正面を向いていた。二人して。後ろから見れば、さぞや妙な……
 私のわき腹に向かってきた手をつかんで、止めた。二人してまた沈黙する。
「わっ!?」
 反対の手で腕をつかまれて、引っ張られた。
 動いた視界、倒れこんだ体。もとから、ぶらぶらさせていた靴が落ちた。
「……」
 カイルの膝に頭を乗せて、横向きに寝転ぶような格好。足を長椅子の上に上げて、曲げる。完璧に膝枕だ。
「……」
 さらさらと、髪を撫でてすくっては放した。指の間を、オレンジ色の髪が流れていく様が心地よい。
 しばらく、そうしていた。視点の変わった庭を見つめる。それから、ごそごそと仰向けになった。空を見て、穏やかな金の目と視線があった。その口元が、笑う。同じように、自分も笑っているのだろうか。
 のろのろと手を上げる。頬に届きそうになる前に、その指がとられて、カイルの口元に運ばれる。触れるように口付けが下りて、そのままこちらを見つめてくる。
 目が合って、逸らせない。
 手と指は取られたまま、カイルの口元が笑っている。どこか不敵に。似た表情で、笑った。

 少し離れた場所で、二つの影が長椅子の二人の様子を窺っていた。
「なんだ、あれ?」
「知らん」
 恋人達の甘い語らいと言うよりは、悪巧み中にしか見えない。ぁあ、できることなら、侍女か兵士たちのようにこの場から立ち去りたい。
 にやりと笑う、主と小娘――今度は、何をしでかす気だろうか?

 ここ数日は忙しくて、互いに顔を会わせることも減った。
 寝室に帰れば、すでに寝入った姿が見える。それは朝も同じ。規則正しいと言えば、正しい生活を送っているのだろう。

 今日も、遅くなってしまった。
 所々照らされた廊下を進む。控えの部屋にいる侍女と、部屋の前に立つ兵士を見送った。部屋に入れば、いや、部屋に入る前から煌々と、灯りが外に漏れている。
 まだ、起きているのか?
 明日もまた、一日講義と茶会を過ごすはずなのに?
 部屋に入れば、案の定照らされた光――寝室への扉は開かれている。そして、もれる寝息は、すぐ傍からだった。
 窓辺の、長椅子。すっぽりと収まってしまうほど、大きい椅子だが――
「そのまま、寝たのか」
 床の上には、開いたままの歴史の本。もれるのは寝息で、頭は肘掛に預けている。
 ぎしりと、長椅子が音を立てる。自分の膝を置いても、起きない。かがみ込み、揺らして起こそうかと思い、やめる。
 手を伸ばして、抱き上げた。ふと感じる、違和感。
 ――軽い――?
 覗き込めば、痩せたというよりは、疲れている顔。抱き上げて、顔を覗き込んだまま、固まってしまう。
 イライラしているのが、手に取るようにわかる。
 お世辞にも、人間に慣れているとは言えない。一所に留まるのは、わずらわしい事ばかりだ。
 日々表情を窺い、強制されること、課せられるもの。すべてが、今までになかった物。失くしたかったもの。
 それを再び、日々受けているのだ。日々、受け入れているのだ。
「……」
 たまには、連れ出したいと、思った。
 ただ静かに二人だけの時間を持つことは、難しかった。ここでないどこかで、二人だけでいられれば、よかったのだ――
 と言ったものの、どのタイミングで連れ出すかが問題だった。
 母上とのお茶会の時間か? それが一番喜ぶだろうが、次の日に時間が倍になる事は目に見えている。
 講義の時間も同じだ。
 となると――ひとつしかない。むしろ嫌がられるかもしれない。
 そう思いながら、眠りに付いた。明日も、早かった。

 何かに急かされるように目が覚めた。窓の外から、光が差し込んでいる。遠くに、鳥の声。
 そして、寝台の上に一人。もう出たらしい。最近はずっとそうだ。
 起き上がると掛布が流れて落ちる。昨日は長椅子の上にいたはずだ。
 額に手を当てて、息を吐く。突然、笑い出しそうな、泣きたいような、奇妙な感じだ。
 中がぐるぐるする。ぐちゃぐちゃとなって、考えがまとまらない。
 しばらくすれば侍女がくるだろう。一人で着替えたかったが、そうも行かないらしい。ユナかセアが来ていれば話は別だが。
 しかし、朝から邪魔だ。
「――だるい」
 毎日が同じ事の繰り返し、そう、何もかもが同じ。島で、独り、憎しみの矛先を向けていた頃と同じように、日々同じ事の繰り返し。
 そういえば、まどろみに何か囁かれたような気がする。温もりが去ったその時。その立ち去っていく気配を頭のどこかで理解していた。
 あれは夢か、それとも。
 扉を叩く音がする。最初は控えめ、そのうち――
 面倒だが返事をする。また同じ一日。あきた。

 雲ひとつ落ちないのは空。そして事は起こる。

 ふと、寒気を感じてレランは振り返った。その間も、剣の指導をしていた兵士は切りかかってきたが、振り向きざまにあっさりとそれを交わした。
 さらにその手の剣を弾き返して、剣の振り方と身のこなしについて指摘する。
「振りが大きすぎる。焦らずともよい。それと左側が弱い」
「はい」
 そして次の兵士を相手にしようとして――思い出した。いや、ようやく口にした。
「あの小娘は、どうした」
 パキシと、何かが割れるような音と共に兵士達に緊張が走った。
 だが、問題は自分の隊の隊長が王子妃を“小娘”などと呼んでいることではない。のだから不思議なところではある。
 それはいい、らしいのだ。当人も王子も。
 問題は今この時間、その王子妃がこの場にやってきていないことだ。
 昨日まで、欠かさず来ていたのだが……
「まさか! 何かあったのでは?」
「ありえない」
 なぜか、怖いくらいに実感の伴ったレランの低い低い声に、兵士は震え上がった。
 見ると、レランの顔は苦々しいものでも思い出したようだった。ご機嫌斜めだ。
 それが普通の姫なら、刺客や密偵や暗殺やら侵入者やらいろいろな可能性を考えるが。
「外す、あとは任せる」
 短く副長に言って、歩き出した。
「隊長、どちらへ?」
「王子の所だ。あの方なら何か知っている」
 持ちたくもないが、核心を持てる。

 さてリールは、午前中は歴史と作法と音楽と言語など、もろもろの教育を受けさせられていた。
 そして昼食。場所は部屋でとっても構わないとされているので、どこでもいいだろうと思ったらしく、今日は外で食べている。いや、食べていた。そこまではいい。
 問題はその後、いつものように訓練場に向かう途中で起こった。
 うしろから、馬の足音が聞こえる。規則正しい足音が、だんだん、だんだん早くなってくる。
 最初は気にも留めなかったが、ふと、振り返ったのと足音が突然早くなったのは同時だった。
「かっ」
 馬上の人間の青銀の髪が光に流れた瞬間、視界が反転した。

「王子? 王子?」
 コンコンと、扉をノックする。返事が返ってこないことに首を傾げる。いや、寒気が予感となり、まるで的中したというようだ。
 迷わず取っ手に手をかける。案の定、扉に鍵はかかっていない。
「失礼します」
 部屋の主がいない部屋に、一礼した。
 しんと、静まりかえるはずの部屋に、なぜか聞こえてくるのはいびき。
 体中から不穏な空気を発しながら、レランは長椅子でだらしなく寝転がる男に近づく。その顔に張られた紙に、らくがき。
『出かけてくる』
 ばりっと、紙を引き剥がす。追記で、頬にらくがき。
『連れて行く』
 ゆっくりと、剣に手をかける。細い音と共に剣が引き抜かれ、窓の外の空の青さを映し出す。
チャキ――キィン!
「どぅっわあ!?」
「よほど死にたいらしいな」
「なんで!?」
 飛び上がって長椅子から落ちたセイジュは、目の前に突きつけられた切っ先にずざぁっと飛びのく。
「いったい、いつから寝ていた」
 声が低い。ついでに睨みつけてくる。逆行に、顔が見えないから余計に怖い。
 これは正直に言うべき! とセイジュは口を開いた。
「朝だったな」
 剣を握るレランの手に、力が入った。そして悲鳴。
 ぁあ日常。見慣れた景色。何を言っても同じこと。

「で、いったいなんだよ……」
 床に沈められたセイジュが、かろうじて腕をぴくぴくさせながら、剣を納めたレランに問いかける。
「無駄な時間を使った」
「隊長?」
 部屋の様子を窺うように、レランの隊の副長が入ってくる。
「なんだ、ヴェリー」
「いえ、それが王子の馬がいないと報告があったのですが、」
 叫び声がしたのでほとぼりが冷めるまで部屋の外にいました。
「ついでに、お茶を用意した侍女がいつものように部屋に入れないという話を、聞いていたのですが」
「報告はわかっている」
 あえて、レランは副隊長の言葉を無視した。
 そこに能天気な声が、一言。
「王子がいない? また?」
 ――“また”?
「やはりここで口を閉ざすといいと思うが」
「そこで剣を抜きますか!?」
 セイジュは立ち上がって逃げた。ちなみに、元気。レランはいらいらと苛立ちを募らせている。
「とにかく、行くぞ」
「どこっげきぇ!?」
 やはり能天気にど~こいくんだ? と問いかけそうになったセイジュの首を捕まえて、レランは部屋をあとにした。
「死ぬ!? こんどこそ死ぬ!?」
 通りすがりの侍女は、その光景を無視してレランに頭を下げた。

「隊長、どこを捜索しますか」
「お前も来ると」
 普段なら、城に置いてきぼりを食らっているのだが。
「はい。――王子とその妃の捜索ですから」
「……」
 表向きにはそうである。当人達がどんな人間であっても。そこで、捜索に二人……?
「仕方ない。全部で五人か」
 こっそりとついて行く気だったレランの隊の兵士と、セイジュの隊の兵士がびくっと身体を震わせた。

 馬に乗って、城下に向かう。今日は安息日ではないが、それなりに込み合う町。馬を下りて道を進む。絶えず周囲に視線を向かわせる。
「しかし、あの妃のどこがいいのかね~? 王子は」
「そうか、そんなに死にたいか、手伝うぞ?」
「隊長、ここは往来ですから……」
 やはり剣に手をかけたレランにセイジュが驚く前に、ヴェリーが声をかけた。
「ったくあぶねぇなぁ~よく言っとけよ副長」
 瞬時に距離を取ったセイジュが、のこのこ戻ってくる。レランは視線をめぐらせて、一言。
「――丁度、よさそうな大型馬車だな」
 人一人ひくのに。
 やっぱり、セイジュは距離を取った。
「何考えてんだよ。第一、気にならねぇか?」
「そう、ですね」
 ヴェリーは、こそこそと丸聞こえで問いかけてくるセイジュの言葉に頷いた。
 それは、確かに気になるらしい。
「そんなもの王子一人が知っていればそれでいい、それに、」
 レランは言葉を切った。何事かとセイジュは耳を傾ける。
「そんな事知って近づいてみろ――殺されるぞ?」
 王子に。
 さて、町の喧騒はどこへ行ったのか。しーんと、時が止まったかのように静まり返った。
 だって、実際にありえそうで笑えない話だ。なんと言っても、人一人殺すのなんて、簡単なことだ。まして王子だ。いくらでももみ消せる。いや、むしろ表に発覚しない……?
「闇討ちか」
 レランが、見事に言い当てた。さらに続く。
「お前がそこまで自殺志願者だったとは知らなかった。手伝うが?」
 どうする? とまたも手に剣が――相当に、お怒りらしい。見た目には普通でも。
「遠慮します!」
 力いっぱい、セイジュは答えた。かすかに、レランが眉をひそめた。
 ぁああぶねーあぶねーと、セイジュが呟いて、ふと右方向を見た時だった。
「……なぁ」
「なんだ」
 くだらないは言うなと、その声が言っている。
「あれ、そうじゃねぇ?」
 “あれ”とは何か。それが問題だ。
 その指が指し示すままに視線を向ければ、飲食店のテラスに二つの人影。どうやら、男女の二人のようだ。遠めにも見えるオレンジ、隠す気はないらしい。
 それに、テーブルに並ぶのは、傍目にも二人分にはほど遠い料理。何って、量が。見積れば四人前はありそうだ。
 そんな中、銀色のナイフとフォークが動き回る。時折話されるらしい会話よりも、皿が空になるほうが早い。
 と、髪の長い男性の手が伸びて、女性のすぐ傍の皿の料理にフォークを指す。
 あ、と言う間もなく、そのまま口に運ばれる料理。残ったのは空になった皿。

『ちょっと!? なんで勝手に食べるのよ!?』
『問題ないだろう……?』
『あるわ!』

 騒がしくなった会話の内容が、読めてしまう。
 そう、それはほんの少しの間だけ、共にいることを許された時間のなごり。
「また、ずいぶんと楽しそうですね」
 呆けていたヴェリーの、驚きに満ちた言葉が聞こえる。
 また今度は、女性が男性の皿のおかずにフォークを突き刺して口に運ぶ。空になった皿は、店員に預けられた。

『……』
『頼んだら?』
 女性の声は、笑っていた。

 興味はないというように、ふっとレランは視線を逸らした。
「行くぞ」
「へっ!? どこに?」
 セイジュが問いかけたのも無理はない。レランが足を進めているのは、この町を出る道。
「あそこにいるじゃねぇか」
 くるりと、レランは振り返った。怖いくらい無表情で、言う。
「ほぉ。ならばお前は城を抜け出す王子と小娘が、こんな所で油を売っているような性格に見えるのか?」
 やはり、町の喧騒は遠ざかったように思う。
 レランが言ったことが信じられないらしく、唖然と口を空けて立ち尽くす兵士達。
「……見えねえな」
 口を閉じて、ちょっとだけ思案したセイジュはどこか面白そうに、そう言った。

 視界の端に写っていた者達が、なぜか、こちらに背を向けて遠ざかっていく。
 “気がつかなかった”――とでも?
 そんなはずはない。少なくとも、あの視線は間違えようがない。互いに。
「ねぇ」
「さぁな」
 それしか問いかけていなくても、同じ思いであるだけに何も言えないらしい。いや、少し違うか。
 やっぱり、自分の目の前よりも相手の目の前の料理にフォークを突き刺しながら、視線を向ける。
 自分でも思うほど素直に感謝していた。
 でもきっとお礼を言ってもとぼけられるのだろうから。黙っておく。
「多忙よね。あんたじゃなくて」
 自分を労われと言い出す前に、言ってやった。

「なぁ……おいっ……おいっての!?」
「……なんだ」
 先を行く黒い影が迷惑そうに振り返る。実に迷惑そうだ。騒音とでも言いたそうな表情、邪魔をする気かと問いかけてくるようだ。
 ――邪魔をしたら、殺されそうだ。
「で、なんだ」
「いつまでどこに行くんだよ」
 もう、夕方だった。日暮れ独特の赤い色が周りを包んでいる。長い影が落ちる。
 もうすぐ、太陽に愛された月と夜の時間。
「そうだな」
 もう、城に帰っているかもしれない。あの王子の気まぐれが起きない限り。
 だが、仮に戻って、あの二人がいなかったら問題になる。かといって、いるのにいないのもおかしい。
「……あの小娘」
 甘いのは、同じ――?
「まっまぁ落ち着こうぜ!! なっ!?」
 寒々しい空気を追い払おうと、セイジュがレランの首に腕を回した。
「ってことで行ってみよーー!」
「どこに?」
 低い、声が低い。
「いい場所があるんだぜ~」
「だからなんだ」
 ずるずると、レランはセイジュに連れて行かれた。

 数時間後……

「おいっ聞いているか?」
「っはいい!?」
「だいたいあの小娘は……」
「あーーそうなんだー」
 しまったーと、セイジュは視線をさまよわせた。
 酒場には、明るく、人々の声が飛び交う。しかし、このカウンターは暗かった。
 どこかで乾杯と叫ぶ言葉も、注文のやり取りも、厨房から香る香りも遠ざかる。
 目の前の棚に並ぶ酒瓶が端からなくなっていく。
 グラスの氷が、振動にからんと音を立てた。

 さらに数時間。

「だいたい王子も……ぉい?」
「……はっ!? それで?」

「「「……」」」
 テーブルで、酒場で不自然にならない程度に飲み食いを続けさせられている三人は内心で頭を抱えていた。
 何かがおかしい。それはわかる。
 だが、どうしろと?
「あら? ぜんぜん飲んでないのね?」
「女将……」
「あっちはずいぶんと進んでいるみたいね」
 絶対におかしい。テーブルの上にはまだ一本の瓶も空になっていないのに、あっちは空瓶がカウンターに乗り切らずに下に転がっている。
「で? 何があったの?」
 わくわくと、乗り出してくる。
「女将」
「よくセイジュさんはいらっしゃるけど、あの方、王子様の護衛の方でしょう?」
 そのセイジュさんもそうなのですが。と言う言葉は飲み込んだ三人。
「王子様といえば、あの新しいお妃様、どんな方なの?」
 なぜにそんな難問を突きつけてくるのだろうか。答えは一言で言い切れない……

「おいっ、」
「はい!?」
 据わりきった目でセイジュを睨むレラン。どーしよー失敗したーと汗をかくセイジュ。
 日ごろの行いの問題がここに浮き彫りになっている。
「だいたい、あの小娘が……」
「そうだな、そうだよな」
 うんうんと、大げさに頷くセイジュ――うそ臭い。
 ぎろりと、睨むレラン。
「いやっ怒るなって!? って、そろそろ帰ったほうがいいんじゃねぇか?」
 王子も、さすがにもう帰っているだろうし。護衛もいるし!
 普段の態度からは到底想像できない言葉が、セイジュの口から漏れる。
 うしろの三人は吹き出した。
「――王子がいる限り、あの小娘は死なない」
 突然、正気に戻ったかのような、言葉。
「――は? ……それがなんだよ?」
 そんなの、見ればわかる。問題はそうじゃないだろ? とセイジュ。
「……あの小娘がいる限り、王子は死なないということだ」
 意味がわからないというように首を傾げたセイジュを置いて、レランはもう振り返らなかった。
(そうだろう――小娘)
 いまだに考え込んでいたセイジュは、振り返って驚いた。
「ぉい!? 置いてくな!」

 結局、城に帰ったのは夜になりきってからだった。

「レラン様!」
 城内に入ると、空気が違う。どこかしら張り詰めているようで、そうじゃない。
 ひどくあわてている侍女が、こちらの姿を見つけて走りこんでくる。
「何事だ?」
「それがっ王子様と王子妃様が――」
 侍女が言葉を言い切る前に遠くから響いてきたのは、派手な破壊音だった。
「なんの、音だ?」
 うしろで、間が抜けているようで、何かを恐れるような声がした。
 そんなものに、構ってはいられない。
 弾かれたように一点を目指した。黒いマントを翻して。
 たどり着くと、案の定というか、そこには人だかりができていた。
「レラン様!」
「隊長!!」
「何事……」
 だ、とまで言う必要もなかった。再び部屋の中から響いた破壊音と、何かが落ちる音と、怒鳴り声が二つ。
「……いつからだ?」
「お戻りになった時には、すでに」
 つまりあのあとすぐにと言う事か。まぁ、あれが長く続くとも思えなかったが。
 しかし、今か。
 ため息をつきたくなるが、今度はガラスが割れる音に、叫び声。金切り声。
 途切れ途切れ「ふざけんじゃないわよ!」とか「うるさい!」とか聞こえてくる。
 また、何かが倒れるような音がした。――本棚か?
「どうしましょう!?」
 侍女と、兵士達が集まって、立ち尽くしている。助けを求められても、困るのだが――
 ……容赦なく、扉に何かがぶつかった。テーブルか?
 頑丈なのは扉だけ、か。あの二人の前では。
 言い争う事など、常日頃からあった。本当に些細な事から、行き先を決める事まで。
 基本的に王子はあまり文句を言わないと思っていたが――そうでもない。
 むしろ、あの小娘といるからこそ好き勝手言うのかもしれない。それは小娘も同じことで――
 だからこそ、ここ数週間おとなしい事には寒気がしたくらいだ。
 やっぱりため息をついて、部屋の前から離れた。
「レっレラン様!?」
「どちらへ!?」
「ほうっておけ。明日、また窺ってみよう」
 その頃には、けろりとしているはずだ。
「そんなっ!」
「止めてください!」
「やめるように説得を……」
 耳を劈くような金切り声と一緒に、王子とその妃の私室への扉が揺れた。内側から揺るがされた。
 今度は寝台でも投げたのか?
「……誰か、止めに入りたいなら止めないが」
 誰の、声も聞こえない。
「決まりだな」
 一歩、進み出た。そのうしろから――
「ぅわぁ。派手だねぇ」
 そこへ、ようやくやってきて言う、男が一人。明るい声で、あっけらかんと。ひらひらと揺れる、本人と同じくらいひらひらした金髪。
「いや、忘れていた」
 振り返って言う。
「ん?」
「もちろん、止めに入るだろう?」
 正面から両肩に手を当てていうと、傍目に見てもわかるほど青ざめた。

 いや、本当は逆だ。
 邪魔をしては、いけない。

 部屋の中の惨状は、レランが予想した状態を通り越して、なおひどいものだった。カーテンは引き裂かれ、寝台はまっぷたつ。棚という棚の中身はまき散らされ、本は裂け、焼き物は粉々だ。
 花瓶の花はその姿を散らし、水は逃げるように絨毯に染み渡っている。
 壁に掛けてあった絵は、壁を叩く振動によってずれて今にも……落ちた。
 言い争い、剣を持つ二人には、そんなことまったくもって関係なかった。
 最初は、ちょっと話がこじれて言い争っていただけだ。最初は。
 まだかわいいもの。のレベルの会話はどんどんどんどんエスカレートした。
 これまでと同じではない、二人の関係。変わらないはずだった。だけど――
 身分と、時間に縛られる。関わらなかった時間にも進入してくる相手。人。人。人々。
 何より、相手が見えるのだ。すべて。
 今までどんなに関わってきたのか、今までどんなに関わらないでくれたのか、が。
 なんだか、いらだつことが逆に頭にくる。何もわかっていない。互いに。
 今まで、何をしていた? どうしていた?
 これまでが何もわからない。わかるのは、今がただ不快なだけ。
 また一つ、壁にナイフが刺さった。壊れて使い物にならなくなった残骸が、さらに踏み砕かれる。
「っ」
 リールが壁際にカイルを追いつめて剣を振るう。ぎりぎりまで引きつけてよけたカイルの右側の髪が無惨に散る。それを気にもかけずに、カイルがリールの足を払う。
 もう、何度繰り返されたのかわからない。今度は、立ち位置が変わる。
 カイルが床にリールをうつ伏せに押しつけた。肩を取られた痛みにリールが顔をしかめたが、それも一瞬。
 疲れ切っているのは、二人とも同じ。
 互いにどこかで力がゆるんだ瞬間にぬけだす。さっきも、今もそう。手元が狂うのは、かすむ視界のせいか、それとも。
 少し距離をとった二人。荒い息づかいだけが響く、この寝室。静かに、視線は逸らさないまま二人が向かい合う。
 周りには、木の破片と、焼き物の欠片と、飛び散ったガラス。穴のあいた壁に、何も照らせない明かり。静かに、月の明かりが入ってきた。
ガシャン!
「「!?」」
 窓の外から、唐突に響いた音に、反応する。さっと足が動いて、気が付けば互いに、背中をあわせて周りを警戒していた。一方は窓の外を、一方は扉を。
 今一番警されるべき二人が、互いに背中をあわせて周りを警戒しているのだ。レランが見ていたら頭を抱えてくれたことだろう。
 しーんと、室内は静まりかえる。当然の事ながら。今は深夜だ。
「「………」」
 リールは斜め左を見上げた。カイルは斜め右を見下ろした。自然、目が合う。
 今度も、静かだった。奇妙な沈黙だ。二人はなんとも言えない顔で、相手を見ていた。
 はははと、嘆息とも笑い声ともとれる声が漏れる。そのまま二人は、背中をあわせたまま座り込んだ。
 まだ、何も言わない。

「……なぁ」
「……ねぇ」
 開いた口を、また閉じる。

 切り裂かれても、風にはためくカーテンの向こう側。向かい合った二人の姿が、見えたかどうか。

 次の日、レランはまたかり出された。なんでも、叫び声と破壊音はあの後少し経ったら止んだらしい。“あの後、少し経ったら”が、実際どれくらいだったのかは、聞かない。
 神妙な顔で、すべての期待をかけてくる兵士、侍女。その前に国王はどうしたと思い、そうだ、あの王だからと思い直す。あの王は放っておけと言って楽しみそうだ。
 実際そうだが。王妃にいたっては「あら一昔前を思い出すわぁ。まだ初々しかったもの」だとかなんとか。
 そしてあのおちゃらけ男はやってこない……どういうことだ?
「大丈夫でしょうか?」
「お前が入るか?」
 冗談で言うと、ずざっと侍女達と兵士達全員が距離をとった。……猛獣の檻じゃないんだぞと言いかけて、そっちのほうがまだましかと思い直した。
 昨日、破れるのではないかと心配した、扉の前。打って変わって、静かなものだ。
コンコンコン
「王子? ――王子?」
 あの小娘は、呼ばない――

 何度か、扉を叩く音がする。聞き慣れた声の、呼び声も。
 斜めに切りつけられて、背を壁ではないところに預けられた棚の隣。穴の空いていない壁に背を預けて、一組の男女が肩を寄せ合っている。暖かな陽気なのか、開かれた(閉じることが出来ない)窓とはためくカーテンはすぐ傍。所々赤いまだら模様のシーツに、二人で包まっている。
 不揃いな髪を右手で書き上げて男は不愉快そうに、顔を上げて、左隣を見た。
 男の肩に頭を預けて、女の瞳が閉じられている。規則正しい寝息。ゆっくりと上下する胸。
コンコンコン
 男はゆっくりと女の傍を離れて、床に散った破片で女が怪我をしないようにシーツに包む。
「ん……」
 女は身じろぎをしたが、されるがままだった。女の顔にかかった髪を払って、唇を寄せて。再び女が声を上げる頃に男は歩き出した。

「……王子?」
 これはきっと、不機嫌だろうとレランは思った。なぜと問われても困るが、反応のない時間の長さから、詠める。
「なんだ」
 と、扉が開いた。案の定不機嫌な声と一緒に。
 後ろで、兵士と侍女が泣いて喜ぶ姿が目に浮かぶ。しかし、その目の前の自分の背に隠れて見えない王子の表情を見れば凍り付いただろう。
「みなが心配します」
 朝の挨拶を飛ばして、それだけ言った。
「お前は?」
「止めるだけ無駄なことは、よくわかっております」
「そうだろうな」
 楽しそうに、王子は言った。
「王子様! 王子妃様は……っきゃーー!?」
 近づいてきた侍女の声が叫び声に変わる。……頼むから、昨日の騒音で痛んだ耳を酷使させないほしい。
 さらにほかの侍女がやってきて驚き、おどろく。
「おっ王子様! その髪は!?」
 確かに、驚きたくもなる。昨日まで背中の中程で切りそろえてあった青銀の髪は、左側だけ肩口より短くなっていた。
「うるさい……」
 とそこへ、なんなのと文句を言いながら出てくる影。それは一人しかいない。
 のだが……
「「「!?」」」
 あわてて、兵士達が目をそらす。あろう事か王子妃は、切り裂かれて服の機能を果たしていない服の上にシャツを一枚羽織ったまま、シーツを引きずるようにして現れた。
「……リール」
 兵士の動作を見て、王子がすぐさま振り返る。さくっとシーツで小娘を包んだ。
「もう少し考えろ」
「ん~」
 やる気のない、小娘の返事。口に手を当ててあくびをしている。
「だる……で、なんなの?」
「ああ」
 そうだと、王子が振り返る。
「切る物」
 一瞬引きつりそうになったが、ナイフを取り出して手渡した。
「切ってくれ」
「はぃ?」
 小娘の妙な声が響く。自分から受け取ったナイフをそのまま小娘に手渡して、髪を刺す王子。ご丁寧に小娘に背を向ける。
 嘆息して、小娘もナイフを持ち直す。手を伸ばして、髪を掴んだ。
 侍女が、止める暇もなかった。独特な音がして、青銀の髪が落ちる。ばっさりとざっくらばんに切られた、王子の髪。
「助かった。これで軽くなった」
「おお王子様!? なんてことを……」
「もったいない……」
 侍女が嘆いた。そうかしらと呟いた小娘に向かって、王子が一言。
「伸ばすんだろう?」
 だから、心配ないな。
「はぁ?」
「ほんとうですか!?」
「そうなのですね王子妃様!!」
「ぇえ!?」
 突然、輝いた侍女の目。小娘に問いかける。問いかけるというか、そう決まってしまったというか。
「~~ちょっと!!」
 いらだった小娘が王子の腕を引っ張る。なんと言っても王子は上半身裸で、他に掴むものがなかったから。
「いいだろう、別に」
「あのねぇ」
 険悪な雰囲気だった。と言うか、小娘が不機嫌なだけだが、また、言い争われても困る。
「湯浴みにいかれてはいかがでしょうか?」
 唐突だが、提案する。ぐるりと振り返る。四つの光。
「いいわね、それ」
「そうするか」
 途端に、表情が変わる。二人。
「ねぇ。それから模様替えをするわよ」
「同感だな」
 落ち着いたらしく、二人の後ろの部屋の惨状を見て嘆く兵士の姿が、ようやく目に入ったらしい。
 そして、湯殿に向かって歩き始める。後ろから付いて行く。もちろん、兵士達に瓦礫を片付けるように指示するのは忘れない。
「まず、天蓋のついた寝台はいらない」
「本棚はもっと大きい物がいいな」
「桃色のカーテンもいらなーい」
「それと、椅子を置こう」
「カーテンは緑」
「緑? 青だろう?」
 小娘は、立ち止まった。王子も止まる。
 きっと、見上げて小娘は言う。
「緑」
「青だ」
「緑」
「青だろう」
「み・ど・り」
「………水色」
「……まぁ許容範囲ね」
「そうだろう」
 ……わからない。この会話の流れがわからない――わかりたくない?

 旅をしていた頃は、この城での生活など忘れていた。常に誰かに敬意を持たれているなど、つまらないものだった。
 ようやく城での生活を思い出して、前のように書類をさばけるようになった頃だった。書類整理の合間に、謁見の時間を設けられていたのは。
 だいたい、人々は王に会うために城に来る。しかし、自分に回された書類に関係した商人、貴族、民間人。はては関係ない老人まで来た。――そんなに暇じゃない。
 専用の謁見室に、順番待ちの列ができたというのだから、驚きだった。
 リールは相変わらずだ、まるで流されるようにこの生活を続けている。まさかいきなり何かしでかすとも思えないが……思い出したように暗い表情を見せる時がある。
 覇気がない。部屋の模様替えは滞りなく終わったが、まだ、旅をしていた頃のほうが――
「王子様?」
「……あ、ぁあ。なんだ?」
 いつの間に、謁見に来ていた商人は帰ったのか。ぁあ、見送ったな。確か。半分以上、違う事を考えていたが、なんとかなるものだな。
 そう思いながら、目の前の商人を相手にする。こちらはお妃様にいかがでしょうと言い出した時点で、追い返した。
 これで最後だったかと、席を立つ。半分も立ち切らないうちに、兵士が駆け込んできた。
「は? リールに客?」
「なんでも、王子妃を出せと言ってきました」
「物好きだな」
 それは、貴方でしょうと、うしろにいたレランは言葉を飲み込んだ。セイジュは笑っていた。
ズガンッ
 壁に亀裂が入る。カイルの手元にあった短剣が消えている。ついでに口元も笑っている。
「連れて来い」
「……どちらを?」
 引きつりながら、セイジュは答えた。
 レランが背後の通路に消え、セイジュは城門に向かった。
 しばらくして、座る椅子のうしろに作られた通路から人がでてくる。
「なんなの?」
 今日も相変わらず、アスラルの趣味なのだろうが、ほとんど軍服に近い格好のリール。うしろで侍女に止められたらしい。一応謁見室だから、ドレスを着てくれと。振り切ったそうだ。
「お客だ」
「私に?」
 問い返してくる言葉に頷く。互いに、顔を見合わせる。――誰だ?
「リーレイン嬢!」
 連れてきましたという兵士の声と同時に、大きな音を立てて開かれた扉。入ってくるのは、体格のいい男とその執事らしき者。
 ずいぶんと、横に長い男だ。金の亡者と言えそうな感じだ。
「……あーー追い返して」
 遠めに顔を確認して、リールが呟いた。
「リーレイン嬢!? なんということを! ようやく見つけたのですよ!?」
 聞こえたらしい。
「あーーそう」
 手間がかかるわ~ね~本当に。
 やる気が失せたというように、興味のない返事。態度。そんなのはどうでもいい。気になるのは、
「リーレイン?」
「ぁあ。エアリアス・リーグラレル・リロディルク・リーレイン――正式には、ね」
「長いな」
「人のこと言えないでしょ」
「そうだな」
 だが、その名は知らない。
「当たり前よ。飛び出してからは、変えたんだし」
「どこから?」
「そこの、主の屋敷からよ」
 リールは首を振った。そこには、無視されつつも気長に待っている男。
「誰だ?」
「っと、そうでした。名乗るのが遅れて申し訳ありませんワイク・グランシャと申します」
「グランシャ? あの花屋か?」
「はい。王子様もいかがですか? 二人の愛の節目に送る花は大変喜ばれ――」
「――知り合いか?」
 “知り合い”ほとんど関係はないといった言葉だ。カイルは男の話を聞く気はまったくなかった。
 グランシャの青い花、二人の愛を永遠に。という謳い文句がある。レテ国の花屋で、その花を恋人に送ると愛の証明になるとかならないとか。送ると恋が成就するとか、言われている。エルディス内でも有名な花屋だ。
 なんでも、某領主は妻にその青い花を贈るために資金を費やしたとか。
「シャフィアラを出て、一番長くいた滞在所よ」
 と言っても半年と少しか。
「なんのために?」
「青い花と、薬草の知識が関係したからよ」
 正確には、薬師の毒草の知識が。
「そうなのです。あの鮮やかな青を出すのに、それはもう貢献してくださって」
「で、何しに来たのよ」
「リーレイン嬢! あれから私の事業は大成功。青い花は世界的にも有名になりまして、あのハウスはいつも花でいっぱいです。しかし、なんですかあの薬は! 十倍に薄めて使っているのにもうなくなりましたよ! しかも、今では青色が濃くなりすぎるのです!」
「十倍?」
 ふと、リールが繰り返した。しかし、男の言葉は続く。
「――あなたがいなくなってから問題が――ですから、あなたを探していたのに見つからないし。困ったところに、エルディスの王子妃の噂を聞いて飛んできたというわけです」
 リールは、聞いていなかった。一つだけ、引っかかった単語意外。
「十三倍にして、使えって、言ったわよね」
「……は?」
 低い声に、まくし立てていた男の動きが止まる。ちなみに、真横にいるリールの顔が暗い、黒い。
「おい」
 と、男が執事に合図を送り、その薬を取り出す。一緒に取り出した小さい紙を目で追った男の顔が、だんだん青くなる。
 それを見たリールは確信した。そして笑った。
「使い方を間違えれば、失敗するにきまってるでしょうがーー!!」
 ぎゃーと、断末魔が響き渡った。

 さて、いつまでも謁見室にいるのも(兵士が)かわいそうだし。と言うことで移動する事にした。リールにこてんぱんにされたグランシャも一緒に。
「で、なんだって?」
 ぇえ? と、不機嫌なリールはお茶のカップを持ち上げた。
 空は良く晴れたいい天気。鳥がぱたぱたと飛び去っていく。風は心地よく、花壇を色取る花をなびかせる。
 集まった人間は、応接間の窓の近くのテーブルを囲む。
「そっそれがですね、リーレイン嬢。薬がなくなって……花が枯れだして……」
 そりゃぁ。薬を濃く使えばそうなるでしょうね。
「強い効果を表し、一時栄える。そして、それはすぐに失われる。同じだけの強さを持たない限り」
「はい~いやぁ~こちらも有名になったものですよ」
 はっはっはと、笑う男。
「で、効果が強かった分、その後の影響も強いと言わなかった?」
「そうだったか?」
 再び、執事を振り返る男。
「はい。仰いました」
「……」
 ぴきしと、リールの持つカップが揺れた。
「リーレイン嬢!? せめて熱湯は勘弁してほしいのですが」
「――ぁあ、真水が良かった?」
 いつの間に持ったのか、花瓶を抱えてほほ笑むリール。
「お気遣いなく」
「いっそ何か混ぜてもいいのよ?」
 飲み物とかに。
「遠慮します」
「で、取り扱い説明も遠慮したと?」
「いえ……もう見たことあるし、軌道に乗れそうでしたしー」
 つい、と、指をあわせてもじもじしながらグランシャは言った。
「それで、見なかったと?」
 どんどん、リールの言葉と目つきがけわしくなる。
「いやぁ。まさかこんな事になると思わないでしょう」
 あっはっはと、頭に手をやっている。
「だから言っただろうが!」
 ついに、花瓶が投げつけられた。
「リーレイン嬢!? 鈍器は死にますから!?」
 男は必死だ。
「花畑の下に埋めてやるわ!」
 こっちは本気だ。
「おい」
 それなりに大きなポットを、リールが持ち上げて振り上げた瞬間だった。
「何、邪魔しないでよ」
「話が見えん」
「だーから。私がシャフィアラから海を越えてついた大陸はバーミリアンで、最初はお金がないし。まぁ拾われたけど」
 そこは、医師も薬師のいない村。お礼と言って、薬草を使って病を治療した。もちろん、簡単な事しかできなかったが。そこに数ヶ月滞在し、やってきた行商人と一緒に、村を出た。
「必要なものはそろえていたし、野宿でもなんでもしたわ」
 時に、奪った。
「で、なんだったっけ?」
「そこからは私がお話しましょう! そうあれは……」
「省略して」
「省略しろ」
 息のあった厳しい一言に、男は撃沈した。
「ですから、リーレイン嬢がその頃植物にかかっていた病気を治したのですよ」
「そーだったかしら?」
 こーんな小娘の話し、誰がまともに取り合ったのかしら。
「裏で手引きしたのはあなたでしょうに」
 宿屋の娘を味方にして。
「ミラは元気?」
「ぇえ。もう一児の母ですよ」
「早い物ね」
「あなたが乗り遅れたのでぎゃ!?」
「なんだって?」
 ふくれた男の足が、容赦なく踏まれている。
「痛いな」
 冷静なカイルの声。それもそのはず、足はさらにぐりぐりと踏まれている。
「ででで、で、私が屋敷に招待したんですよ」
「あの屋敷の庭。ひどかったわね」
「それも、リーレイン嬢のおかげで元通りに!」
「通り越して全部枯れるわよ」
「リーレイン嬢ーー!」
「泣くな! ひっつくな!」
 かちりと、剣が鞘から抜ける音がした。グランシャがリールの腰にしがみついた瞬間に。
「さて、どこから切り落とされたいか?」
 どこでもいいぞ、とカイル。
「話をさっさと進めれば?」
 投げやりなリール。
「どうしたらいいのか、是非お力添えを~~」
「主は、あなたを必死に探しておりました」
 お願いしますと、執事。
「人事だけど?」
 特定の場所にいること、に対する危惧。その一、ね。私に心当たりのある人間がやってきてしまうこと。――できることなら、会いたくない人も。
 行きずりの関係とわかっていたから、だからこそだったのに。
「なんたって、異例な豊作のあとには凶作が来るのよ」
「リーレイン嬢~!」
「えーい! あきらめなさいよね往生際の悪い!」
「どーしてくれるんですか!?」
「私のせいだとでも!?」
「すみません」
 ………弱いな。カイルはお茶を飲み干した。
「だいたい、場所を変えればいいでしょう! 同じ所で同じ花を作り続けるなとも言ったでしょう!」
「……」
「まさか、同じハウスで青い花を作っているわけじゃないわよね。同じ土で同じ薬を大量に含ませて」
 みるみる、グランシャの顔が青ざめる。口をパクパクと開いて、閉じた。
「何か、言い残す事は?」
 反対にリールは、笑顔だった。
「その場合、どうすれば元のように戻りますか?」
 執事が、問いかけた。
「元のようにしたいなら、数十年はほったらかしにしとくといいわよ」
「ほったらかし?」
「そう。草が生えて花が咲いても摘まない。実がなっても採らない。高く高く草が生い茂っても刈らない。木が生えてきても切り倒さない。人間の事情で、立ち入らないことね」
「そうなると、花は……」
「今の稼ぎの半分でも育てば、いいほうでしょう?」
「リーレイン嬢!? 三年先まで花の予約はいっぱいなのですよ!?」
「私の知った事じゃない」
 ばっさりとリールは言い切った。
「ご主人様。ここは今ある土地を元に戻すことにして、新しく土地を買いましょう」
「むむむっしかしだなぁ」
「バランスの崩れた土地を元に戻すのは自然(時間)――私が行った所でどうにもならないわ」
「とにかくご予約のお客様のご要望にお応えしませんと」
「次から、仕事がなくなるわよ」
「リーレイン嬢~~」
「人の話聞いてた!?」
 騒がしいさなか、再びリールにしがみつくグランシャ。カイルの額に青筋が浮かび、やっぱり剣が引き抜かれていた。
 物騒な集まりは、やはり物騒なまま進んでいった。過ぎ去る時間を、忘れたように。

 とうとう日が暮れてしまった。謁見の時間から、こんな時間になるまで時間を無駄にしてしまったと、カイルは後悔していた。
 客室を用意して、夕食までの間。悠々と客に与えられた部屋の長椅子に王子妃は陣取っていた。
 かちゃりとお茶を用意した侍女が下がる。部屋には、王子妃の正面に座る花屋の主と、その後ろに立つ、執事のみ。
「リーレイン嬢」
「何」
 静かな部屋に、堅い声が響く。薄暗い室内に、男の顔は陰を落として見える。先ほどの様子とは打って変わって、口調が違う。もしかしたら、こちらが男の本当の性格なのかもしれない。
 だが、それはめったに表に出てこない。それを知っているからこそ、リールはなんだろうかと顔を向ける。
「こちらは――リーレイン嬢のでしょう」
 男が懐から取り出して、コトリと置かれた、小さな小瓶。リールは目を見開いた。
「これを――どこで!?」
 リールは、身を乗り出して小瓶を掴んだ。
「流れてましたよ、裏で」
「なんで、すって……」
 これが? あの塔の薬が?
「どういうこと」
「リーレイン嬢?」
「どういう事よ!?」
 答えて――ザイン。

「待て!」
「何者だ!?」
 松明の火に照らされて、煌々と輝くグランディア城門。そこで、一人の男が捕まっていた。落ち着いたオレンジ色の髪に、茶色の目。
「リディロル――王子妃はどこだ」
 彼の目に、槍を向ける兵士は映ってはいない。

「また来客? こんな時間にか?」
「通さないと後で首にするように頼むぞと脅されるそうです」
「はぁ?」
 いったい、あのリールにそこまで言わせようとするのは、どこのどいつだ?
 そう思ったが、いちおう通させた。すると男は、開閉一番に言うのだ。
「お前じゃ話にならない。リディロルはどこだ?」
「いったい、なんだ」
 いつになく切羽詰まった男が、二人目か。

「リディロル」
「ザイン!?」
 感動の再会――なわけがなかった。突然客室に押し入った男――手に持つ短剣を投げつけなかったのは、ここが客室だから、か、それとも頼むから再び貴重な骨董品は壊さないでくれと侍女に懇願されたからか。
 それでも殺気を放ったまま、リンザインを睨みつけるリール。
「どういうこと」
 リンザインはまだ何も言っていなかった。だが紡がれた言葉は、ひどくいらだった口調。なんだ? いったい、何を知っている?
 テーブルの上を見ると、この部屋には存在しないはずの、小瓶。それは、あの塔で見たものによく似ていた。――まさか、な。
「すまない、リディロル」
 ただの空似だろうと思う気持ちを、かき消すような言葉。
「どういう事なの!?」
 ごたくは、いいから。
「あの塔に、――賊が入った」
 全部、盗まれた。
 それはリールがリロディルクであった時の、エアリアス家での働きの証拠。――薬であり、毒。
「……いつ」
 一瞬、の間。リールの手が震えている。手から剣が落ちそうなほど。――恐れ、怒り? それとも、別の何か。もしかしたら、それは、そう恐怖と呼ばれる、もの。
「わからない、だけど数週間は前だ」
 エルディスでお目にかかるくらいだ、そうだろう。
「ジオラスは――」
 そうか、彼がいれば。
「あの方は、最近はほとんど現れない。見つけたのはアンダーニーファだ」
 なぜ最近、来ないのか、答えていない。
「ウィア……」
「偶然だが、よかった」
 窓ガラスが割れていると言った。つまり――
「……塔、ね。あそこは、」
 ふと、あの花は平気だろうかと考える。――心配することが多すぎて、まとまらない。だが闇市に出回っているなら――
「あれは、全部、違うのよ」
「は?」
「見ればわかるでしょう」
 そう言って、リールは小瓶を掲げた。リンザインの表情が硬くなる。
「中身と、ラベルか」
「そうよ」
 しばらく、薬師の二人は思案する。
「それは妙案だが、やっかいだ」
「わかっているわよ。こんな事になるなんて」
「思っていなかった」
 シャフィアラの人間ならわかる。関わっては行けない領域、手を出しては行けないもの。だがここでは、どうだ? 中身も言葉も知らない人間が、勝手に薬を売っている。
「――無事なの?」
「大丈夫だ。それは」
 危険なのはローゼやウィアだ。言葉の解読のために、連れ去られないとも限らない。
「ならいいわ。もうこんな所で話している暇はないわ」
 リールは身を翻した。
「どこに行く?」
「回収するのよ――何軒かは、知っているわ」
 エアリアスの薬を取り引きする店。
「手伝えることは?」
 ふっと、リールは顔を上げた。
「全部、買い占めて。日程は」
「今日明日と、大きな市が開かれますよ」
 お茶を飲み干して、顔を上げた男が言う。
「グランシャ、緊急事態なの」
「何を申しますか、当然でしょう」
 胸を叩いて、グランシャは執事を振り返る。その二人の顔が、あくどく笑った。
「資金は、全部出すわ」
 リールは、カイルを指さした。
「それから、アズラルを呼んで。ザイン、説明しといて」
 兵士が一人、城を走り出した。
「あとは、兵士を貸して」
 最後にリールはカイルに頼んだ。呆れたように、カイルは答えた。お前の、兵だろうと。

 さて、昼に惰眠をむさぼり、夜に熟睡をしていたセイジュはたたき起こされた。誰にって、そこは適任者がいるから。
 キィンと、響くのは磨き上げられた剣。違う用途に使われたかったろうに。
「うげっ」
「やはり」
「うわーーすみません働きますから!?」
「そうか」
「……?」
 ずいぶん、寛大なような――
「じゃぁ働け」
「へっ!?」
 そのまま、向かった先――

がっしゃーん!!
「ぉお王子妃様!?」
 ついて行くよう命じられた相手の、妃について行けば……容赦なく、無惨に、粉々に破壊される、店。
「な、なんだっ」
 店の主人が状況を把握するよりも早く流れる、低い声。
「全部、出しなさい!」
 どこで、手に入れた――?

 王子妃と、その仲間達のおかげなのか、次の日には城の中の一室が薬で埋まっていた。
「まだ帰ってこないのか」
 部屋の中央を陣取るのは、不機嫌な顔のエルディス王子。
「リーレイン嬢は容赦ないでしょうからなぁ」
 はっはっはと笑いながらお茶を飲む、花屋の男。闇市での手腕は、カイルですら目を見張るものがあった。
「そう焦らなくても、これが結果だろう? リーディールの方が働きはよい」
 相変わらず執事にお茶を入れさせる、被服師。そんな彼も、事情を聞いた後ふらりといなくなり、どこから手にいれたのか、大量の薬を持ってきた。それも、使用済み。蓋の開いているもの。どこから、奪ってきたのやら。
「……」
 そして、そんな人外パーティの中では存在のかすむエアリアス当主。彼は会話に参加する気はないというように、薬の仕分けを行っていた。
「君もよく働くねぇリンザイン」
「……こちらの、ミスですから」
 アズラルの言葉に、静かに答えるリンザイン。
「そうだな。時に――私はアズラル・ランゴッドと言うが、貴方は? なぜリーレインと言うリーディールの夫すら知らない名を知っているのだ」
 ピキリと、音がしたが聞こえないようだ。問いかけられた男も、平然と答える。
「アズラル・ランゴッド様ですか。どこかで聞いたような名ですね。私はワイク・グランシャと申します」
「グランシャ? なんだったか……」
 名乗りあった二人が、首を傾げる。実は初対面だ。
「――ぁあ、もしや花屋の」
「――まさかっかの有名な被服師の!?」
 互いに、正体を知って手を打つ。納得したらしい。さすがリールのお友達同士、話が会うらしい。会話が弾んでいる。
 反対に凍りついた空気は無視して。
 部屋に薬を運んできた兵士は必死になって逃げた。

 薄暗い室内。狭いが広い建物の中。地下だろうか。壁を背にしてひっそりと進む人影。細身の剣に、天井から差し込む光があたって反射する。
 かつん、かつんと人の気配。――近づいてくる。角を曲がれば、目の前だ。
「なんだっおま!?」
 バシャっと、吹き出た物が地を赤く染め上げた。それを浴びる事になっている事すら厭わず、進み出る歩み。
 暗闇に、光り、踊る剣。
「だれだ!?」
 ざわりと、警戒が強まる。しかしざっと計算しても、十人はいない。ただ先だけ見て、走り出す。
「っひ!?」
「助け!?」
 容赦なった。背後から切りつけられた男達が倒れる。それを踏みつけて、先に進む。
 長く広い部屋。途切れ途切れに、照らされた松明。
 進んだ先、冗談の上座に座る。人の影。
「――あんたね」
「おっかねぇなぁ」
 さきほど、絶命する瞬間の男に、頭と叫ばれた男が言う。
「誰だ? お前は?」
 どこか、からかうような響き。
「俺の仲間をこんな目にあわせた報いは、受けてもらうぞ」
「こちらの台詞だわ」
「何?」
「よくも、持ち出してくれたわね」
 触れては、いけないもの。
「……まさか、お前は」
 女の正体を察して、男の顔が強張る。しかし、遅い。

 所変わって、明るい室内。天井に届くかと思われる大きな窓。足の沈む絨毯。やわらかい長椅子。重量感のあるテーブルの上には白いお茶のカップと焼き菓子。
「ちょっとちょっと、お待ちよ」
「……? 何用でしょうか」
 再び、違う兵士が薬を部屋に運んでくる。数にして十。リンザインの指示によってテーブルの端に置き、部屋を去ろうとした所で呼び止められた。アズラルに。
「いったいリーディールはどこまで行ったのかい?」
「それが、王子妃様はアストリッドに向かうと言い出したそうで」
「何?」
 聞きとがめたのは、その場の全員だった。無言の者も、顔を上げる。
「さすがにそれはとお止めしましたが、どうでしょうか」
「数が足りないという事か」
「はい、こうなったら首を絞めるといって、……」
 そこまで言って、はっとして兵士は口をつぐんだ。
「なんだい? 気にしなくていいよ言ってごらん」
 ふと兵士は、王子を振り返った。懇願する視線を無視して、カイルは首を振った。兵士は心の中で、自分の隊の体長と王子を量りにかけた。
「――いまだ、暗闇に消えた時から、行方が知りません」
「逃がしたのか」
 セイジュ、どうしてくれようか。
「……逃げたのか」
「……逃げましたね」
 リールが、うるさい監視から。
「……」
 ぁあ、早く帰りたい。心のそこからリンザインは思った。

「まさか、お前、エアリアスの――」
「どうでしょうね」
 ゆっくりとリールの顔が形作るのは、笑顔。
「答えなさい、誰に、手引きされた――?」
「はははっ! まさか本物にお目にかかるとわな!」
「っ!?」
 突然飛び掛ってきた巨体を、避ける。きぃぃと細い音がして、気が付くと縛り上げられた、腕。
ガキン!
「無駄だ! 鋼鉄の線は簡単に切れないぞ」
 捕られた、右腕。
 気を抜けば引きずられてしまう。リールは足に力を入れて鉄線を左手で引いた。
 右腕に食い込む鉄線が、肉を割いて割り込んでくる。――血が流れる。
 互いに動かない。しかし、理は男にあった。
 ずるずると引きずられる。右腕はとられたまま、左手で鉄線を持って支える。男は楽しそうに、じわじわと線を引き寄せる。――まるですぐにでも引きずってやれると、言わんばかりに。
 力をこめて引かれる瞬間、それにあわせて、リールが走り出そうと考えた、その時。
キン!
 暗闇から、剣が光った。
「わっ!?」
 突然、自由になる右腕、崩れたバランス。うしろにしりもちをついて、見上げる。
 そして、わかった。
「なんだお前!?」
 リールのうしろから、男とリールの間に立つ男。
「……」
 ため息をついたレランは、一度座り込んだリールを振り返ってから、剣を構えた。あの鉄線を引きちぎった、剣を。
「……カイルは?」
 男共が睨みあっているにも関わらず、リールはレランに問いかけた。なんというか、マイペース? 腕に巻かれていた鉄線は取り払って、今では止血をしている。
「……」
 レランは、青筋を浮かべてリールを振り返る。なんたって、その王子の命令で王子のいる場所を離れてこんな所にいるというのに。
 と、私情の挟まれた(?)思案。一瞬、の、空気の変化。
 敵が待ってくれるはずもなかった。
 一気に距離を縮めて、磨かれた刃でレランを狙う。彼の頭の中では、レランの首が――落ちた、はずだった。
 だが、レランは攻撃を避けた上でその掌を剣の柄で打った。たまらず、男の手から武器が落ちる。そのまま足を払われて、男が前にのめりこむ。
 レランが、剣を構えなおした。
「――殺して」
 驚いた、レランの動きが止まった。

 待ちきれないというように、音をたててカイルが椅子から立ち上がる。
「待つんだな。今動いても行き違いになるだけ、だ」
「そうでしょうな」
 立っただけなのだが、お見通しのようだ。
「心配する事なかろう。お前の護衛がもう一人付いているのだから」
 え? と兵士が口を開けた。だって、王子が王子妃につける護衛と言えば、自分の隊の隊長か、もしくは……そういえば、あの黒い姿を見ていない。
 だが、カイルが立ち上がった本当の理由は、二人にはわからない。
「……リール?」
 何を、している――?
 兵士から帰城の報告を聞いて、部屋をあとにした。

「……情報が聞けなくなるぞ」
「いいの、そうだと知られている事のほうが、問題だから」
 なんとやっかいなものが、一生付いて回る事か。
 レランはあまりの知名度に舌打ちをした。それはまるで伝説のようでいて、目の前にある現実。すがりつく人間が、幾億いることか。
「例外は認めない」
 その声音は、命令しなれた人間のもの。
「お前の命は受けない」
 そう、言っていた。そして、次の瞬間、左手で剣を引き抜いて立ち上がった娘の姿に驚愕する。
「やめろ」
「なんで?」
 きょとんと、問い返してくる。その表情は、歳よりも幼く見えて、ひどい寒気に襲われた。そのまま娘は笑って、剣を持つ手に力を入れた。その姿は、何者にも邪魔されない。まるで止まっているかのように、流れるしかない川のように、少しの躊躇も、なくて。
「王子は止める」
 ぴくりと、反応する。

「ただいまー」
「帰ったか」
「ひぐっ!? 王子!?」
 薄暗い柱の陰から、セイジュを睨みつける、その気配。言葉も何もないが、訴える物は沈黙のせいか言葉で言われるよりも居たたまれない。
「あーー……俺は邪魔なようでしたので」
「そうだろうな」
「はっきり言わないで下さいよ」
「他になんと言えと?」
 わざわざ、目を離した奴に。
「殺すつもりでしょうか」
「他に何がある」
「……いいんですか?」
「さぁな」
 だが、もし自分がその場にいたら――

「お前はもう、ただのエアリー・リールではない。エルディスの名を持つものとして自覚しろ」
 お前の行動が、すべて、王子の評価引いては、エルディスをすべる物としての態度。
「………名を持つ?」
 意味がわからないと、リールはレランを見た。その顔は、すべてを憎む、憎しみに染まった表情。
「そうだろう。リール・エアリアス・エルディス」

「その場にいれば、止めるんですか?」
「いや、止めはしないだろうな」
「はぃ?」
 心底不思議そうに、問いかけてくる。意味がわからないと。

 驚いて、口が聞けない。きょとんと、思いがけない事を言われた時の顔。目を点にして、小娘が剣を下ろす。
「そう、なったのね」
 いまだ、信じられないと首を振る。うつむいた顔。その表情が、見えなくなった。
 こんな時、王子ならどうするだろうか。自分の出る幕ではないのに奮闘しなければならない。小娘のために。
 本来なら、力はすべて王子のために注ぎ込めばよいはずなのに。

『リール・エアリアス・エルディス』その名が、頭の中を走り回る。リロディルクでなかった理由。エアリアスが含まれた理由。
「……ばかみたいね。馬鹿じゃないの」
 言葉がかすれた。目に涙が浮かぶ。嬉しいわけでも、悲しいわけでもない。と、思う。でも何がこみ上げてきたのかわからない。普段、私はどんな時に、泣いていたのだろうか。
 からんと、手から剣が落ちた。
「わたし、は――」
 落ちた剣が拾われて、向かってきたのはその時だった。

 その時はもう一瞬だ。ためらう暇も、戸惑う暇もない。ただ、自分の任務を遂行するだけ。
 いくら、その相手が気に入らなくとも。命令を下した人物に忠誠を誓っているから。
 「ぎゃっ」と声をあげて、男の命が尽きる。それは、顔を上げた小娘の目の前。
 死体を目の前に、目を逸らさない小娘。男の背は血まみれで、うつ伏せ。もう動く事はない。
 赤が散った。剣にも、自分にも、小娘にも。死体を見つめる小娘の視線に気がつき、とっさに、マントで視界を遮った。
「いくつ、死体を踏み越えれば、」
 小さな、声を、途中で遮ったつもりだった。だが聞こえた。
『追い求めずにすむの?』
 少しだけ、王子の気持ちがわかったような気がする。この娘の変わりに、剣を振るう王子の気持ちが。
 この場に王子がいたら、この男は王子に始末されるだろう。それだけは、よくわかった。

「止める前に切り殺しているだろうな」
 言葉は、いらない。必要なのは、態度。
 人を殺すなと、ひどく浮いた言葉は意味がない。
「……えっと?」
「別に反応を期待したわけじゃない。聞き捨てろ」
「はぁ」
「ただし、」
「なんですかね?」
「いい機会だ、働け」
 まじでーー?

「ずいぶん溜めこんでいた物ね」
 血の臭いのする広間を離れ最奥の部屋。隠し扉をこじ開ければ並ぶ小瓶。松明の火に揺れて、硝子の中身が反射する。
「これで全部か」
 そうであってほしいと、言っているかのようだ。
「たぶんね」
「曖昧すぎないか」
「……本当なら、これで、シャフィアラでない所(この場所)で何人死のうと、私には関係ない」
 関係ないのだ。
「それがどうした」
 それこそ興味もないという。
「だけど、私の落ち度なのかしらね」
 わかりきった事なのに、わざわざ残していた物。もう使えない使わない。決めたはずなのに捨てられない。いくら過去を否定しようと、捨て去ろうと、消しきれない。
 ひとつ、小瓶を持つ手を止めて光にかざす。
 これがなければ――
「私のあそこでの数年は、ないものと同じ」
 いてもいなくても同じ? 私は、必要ない? 私である必要もない。
 誰も知らない。誰も呼ばない。誰もが要らないと、言っていた。
 眠ったら次の日には、存在がなくなってしまうのかと思って眠れなかった。

「いつまで仕分けているんだい? 第一、リーディールもいないのに勝手に」
 リンザインの背後で、小瓶をひとつ持ち上げて声を掛ける。彼はお茶を飲み干して暇を持て余していた。
「お言葉ですがアズラル・ランゴッド、私も一員ですので」
 同じ知識を持っている。違うのはそれが知識なのか、実際なのか。いや、実際にそれで人を殺すのか、生かすのか。ただそれだけ。
 同じことだ。人は死んで生まれ、生まれて死ぬのだ。死ぬことも生きることも同じ寝台の上で起こる営みのひとつ。
 生かすも殺すも自分しだい。――もう、見慣れてしまった。違和感を覚えないほどに。生かされるものと殺されるものがいることにすら。
「でももったいないですねぇ。こんなにあるのに」
 さらに後ろから、グランシャが声を近づいてくる。
「売れば儲かるでしょうに」
「もう儲けているでしょうが。まだほしいの?」
 心底呆れた声が聞こえた。兵士に仕事をしてくれと懇願されたカイルは机の上に書類を持ってこさせて、それにサインをしていたが顔を上げた。
 開かれていた扉から、呆れた顔で入ってくるその姿。
「おかえりリーディール」
「リーレイン嬢。物欲に乏しいですねぇ相変わらず」
「うるさいわね」
 余計なお世話よ。
「リーディール、思うのだが」
「なに」
「労働分はきっちりと返してもらうぞ」
「……じゃ」
「言っておくが現金ではない。そう、もちろん、」
「「お帰りなさいませ!! リーディール様!」」
 タイミングを見計らったというように登場した双子に、リールは引きずられて連れさらわれた。

「――で、なによ」
 リールは不機嫌だった。それもそのはず、帰ってきて口を聞くより早く、連れられて着替えさせられる。つまり、答えは。
「そう、私の服を着続けること!!」
「早く帰れ」
「リーディール。恩師を邪険にすると罰が当たるぞ?」
「……恩師?」
 だれが? どこにいるって?
「少なくとも、本当の恩師なら自分から恩師だと言わないと思うわ」
 そう言いながら、視線は違う所に向かっている。一番奥の、机の向こう。目が合う瞬間に、逸らす。その繰り返し。
 一言も発していない。
「これで全部か?」
「――っそう……ね」
 突然ザインに声を掛けられて驚く。振り向けばその先にはすべての薬。これがはじまり。これまでのすべて。
「どうする?」
「どうするも何も、還すわ」
 あの島に。もともとはあの島にあったもの。すべて。ただ使い方を誤った。
 そしてまたあの時のように、その実を毒に変える。あの木。
「仕分けはしておいた。あとは」
「四つに分けて、捨ててきて」
「そうだな」
「……」
 しかし、目の前には大量の小瓶。……面倒だ。
「用意は?」
 そう言った言葉と共に次々と運ばれてくるガラス瓶。大きさは、一つ一つが大きめの花瓶と言ったところか。
「緑系と、蒼と、藍と」
 さくさくと、瓶の中身をひとつにまとめていくリール。ためらいもなく瓶の中身を瓶の中に入れ続ける。すべてが混じって、もう使い物にならない。
「ぁあーーもったいない」
 ひょいっと、覗き込んでグランシャが言う。
「自分で儲けなさいよ」
 無視して、リールは小瓶の中身を空け続けた。瓶の中に混じる液体が、どんどんどんどんその色を濃くしていく。
「目の前で大金が消えていくかと思うと……」
「職業病?」
「普通の感覚だと思いますけど」
「自分が普通だと言っている時点で病気よ」
「……リーレイン嬢」
「なによ」
 文句あるの?
 がっくりと肩を落としたグランシャをまたまた無視して、リールは小瓶の蓋を開け続けている。リンザインが仕分けしたものを、端から。だが、四つに分けられた物の一区分しか手に取らない。
「なぜ分けるんだリーディール。すべて一緒にしても同じことだろう?」
 ふと、アズラルが問いかける。確かにそうだ。だってすべて同じ物のはず――
「……まぁ。うまくすれば蒸発させることも可能だけど、」
 そう言って、小さめの瓶を取り出す。そこに赤黒い液体と濃い緑色の液体を空ける――
パァン!
 液体が混ざりあい、空気が膨張する衝撃に耐え切れなかったのか、瓶が割れて破片が散った。
「……」
 リールは手の甲で血の流れる頬を拭った。
 砕け散った瓶、蒸発した液体。――それは、まるで、薬と言うよりも兵器に近い。
「とまぁ。こんな感じ」
 あっけらかんと、リールはアズラルを振り返った。
「下手に混ぜると、何が起こるかわからないからな」
 そう言いながら、リールと共にリンザインが破片を拾い集める。その、なれた手つき。小瓶と破片は同じ木箱に入れられている。硝子があわさって、耳障りな音がする。
「気をつけろ」
 静かに、本当に静かな声が響いた。リールは振り返らなかった。
「そうね」
 二人は作業を再会した。リンザインは物を仕分けて、リールはそれを四つにまとめる。瓶の中の液体の色は、透明に近いものから黒い物まで様々だった。
 ただ無機質に時間がすぎてゆく。誰も何も言わず、手は動き続ける。暇を持て余す頭は考え続ける。
 色づく物、色を失うもの。様々。――そう、すべて、“失ったか”、もしくは――
パァン!
「投げるな!」
「!?」
 はっとして手を止める。気がつけば、手に捕った小瓶は箱の中で砕け散っている。風を切る音は、もう聞こえない。
 気がつけば、息が荒い。
 気が変になりそうだった。薬のひとつ一つが、あの塔で、たった独りで、作り続けた物。外に行って誰かを殺すか――生かすか。殺すつもりだろうと罵られて、逃げられなかった。
「……」
 箱の鍵は、掛けられなかった。扉を閉じただけでは意味がなく。封印はいつか、破られるために存在している。
 ――もとを、絶たないから。
 息をついて手元を見つめた。そこに、一瞬血溜まりが見えたような気がする――
「少し休め、顔色が悪い」
 手元からすり抜けていく……
「ずいぶん、親切ね」
 ぴたりと、リンザインの手が止まった。
「そうだな――今更か」
 それでも、離れはしなかった。互いに何も望まなかった。その手も知識も。もしひとつでも何かが違えば、今いる立場は逆転していてもおかしくなかった。
 方や、当主の息子。方や――
「いつ定まったのか」
 この道を進むようにと、定められたのか。
「知らないわ」
「だが正式に言えば――」
「黙って」
「……お前達は、従兄妹関係だといったが、本当か?」
 突然だったが、その声に二人は沈黙した。何かを考え込んでいる。
「どうなんだっけ?」
「さて、どこまで突き詰めるかによると思うが?」
「私の父と母の母親が、あんたの母親の母親でしょう、」
「ぁあそうだな」
「で、」
「まて」
 いつになく、焦った声が聞こえた。
「なによ」
「今何を言った?」
「母親の母親?」
「その前だ」
「前――? ぁあ。私の父と母の父がザインの母親の」
 母で――と、続かない。
「父と母の母と言ったな?」
「「――ぁあ」」
 リールと、リンザインの言葉が重なった。まるで、それが問題だとするカイルがいることに気がついたというように。
「あの島よ?」
 小さい、閉鎖空間。海は他人を寄せ付けない。
「島人ですら、遠い親縁のものと婚姻関係を結ばざるを得ない、な」
 アズラルが言葉を引き継いだ。
「それに、初当主の血を重んじて濃い血を引く物を当主に据える――ずっと、それできたわ」
 初代当主エアリアス・リインガルド。オレンジ色の髪、茶色い目――
 いつものことよ?
「認められるとでも?」
「さぁ? でも、それで産まれてきたのよ」

 近しいもの達の、近親相姦。初代の血を色濃く受け継ぐ者を当主に。

「母と父は双子で――黒髪だった」
 静かに、語られる、あの島の日常。
「母は茶髪で、血が薄かった」
 祖母は、自分の子から血を引く物を出したかった。なんとしても。一人は血を引く者に嫁がせ、残りの黒髪同士で先祖がえりを狙った。もとより、兄妹は仲がよかった。引き離すよりも、もっと簡単。
 結果は、目の前に。すべてどこかでつながり、すべてどこかに返る。
「それが、認められていなかろうと」
「それが、何かを狂わせていようと」
 残ったのは、ただ独りで歩く。その名だけ。
 どんどん深淵に落ちていく。落ちるだけ落ちたら、次の道が開かれようか?
 底に、たどり着きさえすれば――

 奇妙な沈黙が下りていた。誰も、本当のことを言葉にするのをためらうかのように。
 だが沈黙に耐え切れたかのように、グランシャが問いかけた。
「ぇえっと、リーレイン嬢? すっるてぇと、つまり――」
「その通りよ」
 言葉を読んだかのように、言いたいことはわかっているというように続く言葉。
「私の両親は双子よ」
「俺の両親は従兄妹関係」
 そうやって、幾度、その血を初代に返そうとしたのだろう。
 あの閉鎖された島の中で起こる、血の流れ。流れる血はどす黒く染まり、流れていく血は赤く耐えない。
「だから言ったでしょう」
 アズラルでなければ、リンザインであったと。
「そういう意味か」
 本当に従兄妹かと疑いたくなる、引っ掛かりの残る関係。
「その血の流れが濃いままなら、それでいいのよ」
 だから、ある意味では生かされてきていた。初代当主の血を濃く引き継いだ物として。
「気味が悪い」
 内情を知って、震え上がったのはグランシャだった。彼も長く生きてきているはずなのに、寒気のする現状。
「怖いの?」
 それに答えた少女の声。表情。初めて――恐ろしいと思えるほどの笑顔だった。
 本当に怖いのは、それでも平然としているこの女性かもしれない。

 がらがらと台車の引かれる音がする。向かうのは城門。もう用はない、時間がおしいとリンザインは言った。帰りはどうするのかと、問うまでもなかった。
「いいのか?」
「いいのよ。ギミックの船が来ているから」
「なぜわかる」
「それ以外に、どうやってくるのよ?」
 一瞬にして、風の流れが変わった。さっと顔を上げたリンザインの行動は、カイルと向き合っているリールには見えなかった。アズラルとグランシャも、それまでの会話を打ち切った。
「――」
 カイルは、静かにリンザインの背に目をやった。彼は、歩き始めた。
「そうかもしれないな」
 最後の呟きを、もうリールは聞いていなかった。
 兵士の引く台車の上には、掛けられた布の下に入れられた、四つの瓶。それを封じた、鍵のついた箱。
 仕分けの終わった液体は、リンザインに手渡された。すべて、地に返すために。そして二度と、誰の命も奪わないために。
 去り際に、リンザインはリールの頭に手を置いた。まるで髪を乱そうとするしぐさに、リールがその目を睨み付けたが、気に止めてもいない。
「――無理を、するなよ」
 リールは、ただ睨み付けているだけだった。
 こんなにも小さくて、静かな存在。視て見ぬふりをしてきた。自分に構うだけで他に構う余裕などなかったから。
 それで、よかったのか。それが、よかったのか。今でもわからないまま。
「じゃぁな」
 これで、最後。別れの言葉は。外と、中は関われないから
 どこか様子の違うリンザインの言葉に、ふとリールは眉を寄せたが、その時にはもうリンザインは歩き始めている。
「……っ!?」
 声をかけようとした所で、うしろから抱きしめられた。
「――なに」
「いや」
「だからなに」
「……別に」
「……」
 その力は強くて、振りほどくのは大変だと知っていた。だから、嫌がらせとばかりに後ろに寄りかかってみた。それすらも楽しまれているようだが。

「あ~あ~あ~お熱いことで、歳よりはついていけませんよ」
「そうか? 確かにもう甘いだけでは生きていけないがな」
「まったく~アズラル様はねぇ~」
「はっはっは! いやいや、お主には負けよう」
 そのうしろで、何かを含んだ胡散臭いだけの笑みを振りまきながら笑いあう二人。――うるさい。

「さて、リーレイン嬢」
 急に、真面目な顔をしていまだカイルの腕の中にいるリールの目の前まで来て話しかけてくる花屋。
「なによ」
「花畑の話ですがねぇ」
 そういえば、そうだった。と、二人は思った。
 そうだ、こいつはそのために来ていたのかと数日前の事を思い出す。思案するように動かした手が、ふっと、リールの右腕に触れた。すると一瞬、リールが身体を強張らせた。カイルは何事かと目を見張ったが、それを振り払うかのようにリールは会話を続けた。
「忘れてたわ」
 強い、口調。そして続く言葉。
「忘れてなかったのね……まだあきらめてなかったの?」
「リーレイン嬢!? ひどいですよそれは~」
「なんでよ」
 自業自得でしょうが。
「リーレイン嬢~~!!」
「あ~もう。新しい土地を買いなさいよ」
 投げやりに、リールは言い切った。
「ですから! それでは来年の予約分も賄えません!」
「知らないから」
「リーレイン嬢~ぉ」
 ふいっと、リールは首を振った。
「アズラル様~ぁ」
「おおっと、私はまだ仕事が……」
 今回友達になったはずの男は、ささっと城内に姿を消した。
「「……」」
 逃げたわね……
 逃げたな……
 それを半眼で見送る夫婦。
「王子様!」
 さて、救いを求めて男はカイルに目を向けた。しかもその目がキラキラと輝いている。
「なんだ」
「いえ、実は働きの報酬も頂いてないのですが」
「いつ払うことになったんだ?」
「リーレイン嬢は払ってくれないでしょうから、ここは王子様に!」
「俺はレテ国につてはない」
「使えねぇ」
 ぼそっと、グランシャは呟いた。
「……ぉい?」
 どういう意味だ?
「……はぁ。まったく」
 リールは額に手を当てた。
「リーレイン嬢?」
 もしや、と、グランシャの顔が輝いた。
「質は落ちるけど、花を咲かせる方法ならあるわ」
「ぉお!」
「ただし、青にはならないわ。よくて水色。――水の色とでも偽れば?」
「意味ないじゃないですか!」
「だまらっしゃい!」
 だから自業自得でしょうが!!
「とにかく、中和剤を渡すから、まだ汚染されきっていない土地を選んでまいて、残り半分近くは手を入れないことね」
「それでは儲けが半分に……」
「だから、土地を買え」
「え~」
 ぴきしと、リールの顔がゆがんだ。花屋の男の後ろで、執事が頭を下げている。あきらめろと。
「ひっ!? ……しかたありませんねぇ~」
 睨まれた男は、おれた。

 それから、すぐさまカイルの腕の中を抜け出したリール。部屋に帰ったかと思えば持ち出したのは白い粉。
「今度、注意書き読まなかったら刺すわ」
 静かに、リールが呟く。それがいいだろうとカイルは頷いた。
 顔を引きつらせながらもそれを受け取ったグランシャは袋を大切に懐にしまい。執事と供に城門まで見送りに来たリールとカイルを振り返った。
「では王子様! もし私の青い花をお妃に送ることを御所望ならばお申し付けを。一級品を差し上げます。リーレイン嬢もお喜びになるでしょう!」
 その分、御代も弾みますからと言って、花屋の男は去った。まるで嵐のごとく去っていった。
 入り口に残されたもの達。兵士は遠巻きに眺めるだけに留まっている。去り際のあっけなさに呆然と立ち尽くしている二人。しばらくして、カイルが声をかける。
「何をあげたら喜ぶのか、知っているつもりだが――花がほしいのか?」
「……任せるわ」
 いらないとも、言わない。
「そうか」
 その言葉は花屋の背中の向こうで交わされていた。

「意外に早かったな」
 見送りを終え、城内の部屋に戻れば今だその場でお茶を楽しんでいるこの男。リールははぁっとため息をつき、カイルはただリールのうしろにいた。
 すると、そんな二人――いや、カイルを一瞥してアズラルは口を開いた。
「そういえば髪を切ったのだな。あそこまで伸ばしていた物を切るなど、なかなかできることではないが」
「この確信犯」
「なんのことだい? リーディール?」
 あの日のことは厳密に封じられているが、あれだけ盛大に模様替えが行なわれたのだ、何事かと問いかけた者は少なくない。
 しかも、この情報収集が趣味の噂好きならなおのこと。
「おやっ今回はセナの情報なのだが」
「あの二人なら、城の人達とも親しくなれるものね」
「はっはっはリーディールそれはどういう意味だ?」
「主が主なら仕える人も仕える人ってことよ」
 さて、どういう意味だろうねと呟いて、アズラルはお茶を飲み干す。
「さて、帰りますか」
「早く帰れ」
「また呼んでおくれよ。リーディール」
 立ち上がって、リールの髪に口を寄せたアズラル。
「……気が向いたらね」
 その言葉に満足したのか、アズラルは立ち去った。

 ようやく、客間に沈黙が戻ってきた。これですべてが終わったと安心した。その時、
「――っ!」
 背後から腕を捕まれて、痛みにうめいた。服で見た目は隠せても、痛みは隠せない。
 無言で、カイルは上着を剥ぎ取る。現れたのは、赤い筋の浮かぶ、白い包帯に包まれた細い腕。
「誰のせいでもないわ」
 目を細めたカイルに伝える言葉。
「――そうか?」
「そうよ」
 それだけは、納得させないといけない。これは、自分の不注意から生まれた傷。
「当分は、おとなしくしているんだな」
 出て行くことも飛び立つことも、止めることも留めることもできないから。
「そうね」
 どこでなら、休めるのか知っている。
 再び引き寄せられて、考える。そういえば、抵抗しなくなったのがいつからなのか覚えていない。
「あまり、無茶ばかりするなよ」
「いまさらじゃないの?」
「――そうだな」
 ただ違うのは、その場にいるか、いないか。その場にいれるか、いれないのか。
 名前と身体を切り離すことはできないから、何をするにも付いて回られる。望んで利用することは多くあるが、それは、それに縛られるもどかしさのほうが勝っているからせめてもの抵抗なのかもしれない。
 触れ合った体温が混じって暖かい。決して強くもなく、けれど弱くもない腕の力。過ぎ去るのは時間と風。姿は、動かないまま。
 すっと目を細めて見つめる、白い包帯。攻めはするなと釘を刺されたものの、問いただす必要性がなくなったわけではない。
 そこに、カイルの思考を中断するかのように、こつっと、頭がぶつかった。
「ねむぃ……」
 心地よい暖かさ。帰ってきたのだという、その、実感。
 立っていたくないのか、丁度いいとばかりにそのままかかる体重。
「……眠いのはわかったから。立ったまま寝るな」
 言葉は、聞こえていなかったようだが。

「お~帰ってたのか」
「……」
「いやぁ~忙しそうだねぇ」
 そう、のんきに声を掛けたセイジュの頭の上すれすれを掠るように何かが飛来する。
「……あれ?」
 壁に突き刺さった、銀色に光る短剣。振り返れば銀色に光る大剣。
「ぎゃ!?」
 一泊遅れた、叫び。
「――ぁあ、いたのか」
 見えてるでしょう!? セイジュの悲鳴は口をパクパクとさせるだけで音にならない。
「あまり訓練する暇もなかったのでな。腕が鈍ってないか――」
「俺で試すなよ!?」
「なぜだ?」
 兵士じゃ加減が難しい――“これ”ならそうそう死なないし、何より逃げの常習犯ときている。何より、誰も何も言ってくることはない。特に、仕える主とか、その隣にいる女性とか。
「……」
 はぁっとため息を付く。その視線の先には、その間に逃げようと左側にわずかに移動する男。
「おい」
「いっ!?」
 いや、別に逃げようなんて……
「ほぉ?」
 言いたい事があるなら、聞いてやろうか?
「遠慮しときます!!」
 脱兎のごとく、セイジュが逃げ出そうと――
「何をしている」
 ……虎に退路を立たれた兎の目の前には毒蛇……
「ぅわぁ」
 それは、驚きや驚愕と言うよりも、あきらめの混じったため息。
「王子」
「“あれ”は、なんだ?」
「……私の不注意です」
 どこから入り込んでよいのかわからない。あれが王子妃であると思っていないからこそ出た行動の中に。
 レランの言葉に、カイルはしばらく腕を組んで考え込んでいた。それを崩して息をつき。誰に言うでもなく呟いた言葉。
「どいつもこいつも」
 同じことを言う。
「んなっ? なんだ?」
 セイジュは、カイルとレランを交互に見比べている。まぁ誰についての話であるか、は、わからないことでもないが。
「――まぁいい」
 踵を返して立ち去るカイル。一度頭を下げて、その後を追うレラン。
「……?」
 セイジュはしばらく立ち尽くしていた。……実は袖と上着の裾が短剣によって壁に縫い付けられていて、動けなくなっていた。

 ふと目が覚める。周囲を見回すと暗い。もう暗い? まだ暗い? いつ寝入ったのかよく覚えていない。
 伸ばされた腕に抱きしめられて、動きにくい寝台から降りる。すると、夜着越しに触れる空気の冷たさに身体を抱きしめる。
 暖かさがまったく違う。それは、中では一人ではないからだろうか。
 裸足で絨毯を踏んで、窓際に向かった。
 見慣れた星座が見える。昔は、形と位置の違う星々に戸惑った物だ。方向をつかめないから。だが、思い出させることもなかった。
 闇の中、一人で、星の明かりを頼りに歩き回った。森の中。あの時の気持ちを。
 窓ガラスに手を置くと、どんどん熱が奪われる。それでも、置いておきたかった。触れて痛かった。一緒に、心が冷えていかないだろうか。ガラスにならないだろうか。
 だけどガラスは――ひどくもろい。
 窓越しに、近づいてくる姿が見えている。身動ぎひとつしないでいたら、後ろから抱きしめられる。
「……寒い」
「寝たら?」
「……一人では寒いと言っている」
「私、温元じゃないんだけど」
「似たようなものだろう」
「あのねぇ」
 寒くて、目が覚めたのか?
 そう思うほど眠たそうなカイルに連れられて、再び寝台に沈む。もう星は見えない。冷え切った手はつながれて、温もりを取り戻した。
 腕を枕にしろといわんばかりに抱きしめられて、向かい合う。冷め始めた胸板に顔を寄せると、――トクン――トクンと、心臓の音。吸い込まれるように、眠りについた――

「来月に舞踏会を開く」
 朝食の席で言った国王の言葉。その言葉に、三人は三者三様の反応を見せた。
 妃は目を輝かせて手を叩いているし、息子は特に驚いた様子もなく平然と食事を続けようとしているし、息子の嫁(むすめ)は珍しく驚いてフォークを取り落とすという失態を見せている。
「本当ねあなた!」
「……」
「……は?」
 身を乗り出してくる妃、水を飲もうとして失敗している息子、やや間があって、呆然と口を開いたむすめ。
「そろそろお披露目でも済まさないといかんのでな。外交上」
 エルディスは、バーミリアン大陸の西側の諸国と領土を所有する国だ。他の国王と領主を無下にするわけにはいかない。
「嘘でしょう」
 呆然と呟いたむすめ。
「まぁこれでも減らしに減らした結果だが」
 それでも、そろそろ限界と言うところだ。
「これを乗り切れば、当分はない」
 逆に言えばこれを行なわなければ、下手をすると夜会ばかり開くようになる。
「嘘でしょう」
 今度は、違う意味の含まれた言葉。
「そんなわけだリール。――時に」
「はい?」
 お前は、踊れるのだろうな?

「ありえない」
「何がだ」
 鏡の取り付けられたホールに、一組の男女の影が見える。夜だというのにカーテンは開かれたまま、灯りは壁際に灯された蝋燭のみ。
 城の中に作られた踊りの練習場。今朝、目を輝かせて先生をよこすと言った王妃の申し出を、リールは拒否した。
 曰く、踊れるから、と。
 だがしかし、カイルまでもがその言葉を疑ったのは言うまでもない。今ここで踊れと言われても拒否するリール。切りがないので、誰も見ていなければ一度カイルと踊るということで話はまとまったのだ。
「踊れるのか?」
 珍しく、言葉を疑ったままのカイル。
「“踊り”は“教養”の一部よ」
 苦々しく、言う。今になって使うことになろうとは思いもしなかった。
 十になるまでに教え込まれた教養。それは紙に書いてある文字から始まり、歴史、武術、剣技、舞踊、音楽、刺繍、料理など多岐にわたっていた。もちろん、日常に必要なものから、日常覚える必要のないことまで。
「はじめるか」
「そうね」
 心底面倒だと言いたげなリールの口調。苦笑して、カイルはその手をとった。
 音のない半月の晩。二人には、それでよかったのだ。

「話は聞いたぞリーティール! 舞踏会が開かれるそうだな!!」
 次の日、朝一番に王子妃の部屋に乗り込んでくるこの男。
 それを半眼で睨み付けるリール。その目が物語る。誰よ、口を滑らせたのは。まぁ誰も言わずとも、どこからか情報を拾ってくるこの男には意味がないだろうが。
「そうだな、まずはドレスの色から考えるか」
「……」
「ぁあ。それに宝石も一揃い用意させよう」
「……」
「方はやはり流行のレースがよいか、それとも新しいフリルがよいか」
「……」
「そうだ、線をはっきり映す物で幾重にも重ねた物もいい」
「……」
「よかろう! その方向で!!」
「リール!」
 先ほどとさほど替わらず突然、飛び蹴りでも喰らったのか!? と思うくらい派手に開かれる扉。
「……王妃様?」
 首を振って声を掛けたのは、被服師の男だった。
「もう舞踏会のドレスは……あら?」
「ご機嫌麗しゅう王妃様。相変わらずお美しい」
 よくまぁこんなに態度を変えられる物だとリールは思った。
「そう言わずともお主のお気に入りは目の前におろう?」
 王妃は、楽しそうに笑っていた。
「いえいえ、王妃様にしか持ち得ない美貌が――時に王妃様」
「なんぞあるのか?」
「差し出がましいようですが、王妃様の舞踏会のドレスはこのようなデザインを考えたのですがいかがでしょうか?」
 その絵には、紫のドレスに扇を掲げる一人の女性の姿が描かれている。
「先日宝石(パール)を手に入れたばかりと伺いましたので、こちらにあわせてそろえてみるとまたよろしいかと」
「ほっほっほ。お主の情報の速さと正確さにはいつも驚かされるわ。パール(あれ)は、まだ王にも見せていないというのに」
「ですから、お披露目をなさるには絶好の機会かと」
「そうねぇ~」
 突然、口調が変わる王妃。
「新しい物を新調するつもりだったのだけど話が早くてよいこと」
「布を送らせます」
「そのようにな」
「かしこまりました」
 ほっほっほ~と上機嫌で笑いながら去っていく王妃。もと来た目的を果たしていない。
「これで当分は静かだな」
「だから、確信犯」
 あきれて、リールは言い切った。
「何を言う。邪魔を排除するのも仕事だ」
 仕事に集中するためには。
「邪魔してもらって構わないのに」
「私は構う!!」
 そんなこと聞いていない。
「さてリーディール、やはり何色にするかが問題になると思うのだが」
「なんでもいいわよ」
「薄桃色」
「却下」
 そんな桃色は嫌だ。
「黒」
「却下」
 冗談じゃない。
「リーディール?」
「……」
「ほぉ。つまり青でないと嫌だと」
「そうは言ってないわ」
「やはり、青でないと嫌だと」
「だから言ってない」
「わかった。これは王子にでも伝えてくるか」
「言ってないっていってるでしょう!?」
 ばんとテーブルを叩いた。涼しい顔で、アズラルはリールを見る。
「声を荒げるところが逆に怪しい」
「~~あ~もう」
 リールは椅子に座りなおした。侍女が用意していたお茶に口をつける。
「いっそ王妃とお揃いにするか?」
「冗談」
 冷ややかなリールの声と、凍りついた部屋。
「緑があるでしょう」
「どうしても青は嫌だと」
「藍ならいいわ」
 妥協した結果だ。

「「舞踏会?」」
 二人は、同時に頭を抱えた。ただし、一人は警備に関係することを思案し、一人はいつものように抜け出す算段を――ん?
「ずいぶんと、久しぶりですね」
「そうだな。母上がいくら言っても父上は嫁(むすめ)の披露が出来る準備が調ってからだと言い張ったそうだ」
「それで、最近は静かだったんですね」
「そうだな。あの母上がおとなしくしていることも珍しいので、いっそあのままでよかったのに」
「さすがに永遠には無理でしょうねぇ」
 王妃は、娯楽が好きだ。密かに仮面舞踏会に出かけていることなど周知の事実であるくらいに。実は国王も参加しているとか。
「そうだな、お前を永遠に葬れないのと同じくらいにな」
「……あれ?」
 何か、不穏な言葉が……?
「そうだな、試してみるといいんじゃないか?」
「そうですね」
「いや!? まだ何もしてないっすけど……?」
「ほぉ?」
「そうだったか?」
「……」
 セイジュの背中を冷や汗が流れた。あれ? どれのことだろう……?
「そうだ、忘れていた」
 何かを思い出したように部屋を出て行くカイル。その後ろで、激しい物音とあわてた声が聞こえたが、気に止めてもいない。
「王子様!?」
 部屋を出たカイルに焦ったように声を掛けた兵士の動きが止まった。
「どうした? “探し人”か?」
「えっ!? ……はい」
 さすがの兵士も、自分の隊の隊長の断末魔が聞こえてきているのだ、気が気ではない……
(またですかっ!?)
 わけでもなく呆れていた。
「悪いが出直してくれ」
「はっ!」
 礼をとって、走り去った。と、角を曲がって再び驚愕している。
(なんだ?)
 驚いたような声の後に、あわてて走り去る足音。
 隊長も懲りないなぁと考え事をしていた兵士がリールにぶつかりそうになってあわてて、謝罪をした。そして、何よりもその姿を見て絶句していた。それを気に止めず、気にしないでと(やさしく)声を掛け、角を曲がって部屋に向かってきた。
「なに? 何事――」
 あくびを噛み殺したリールは、カイルの先の部屋から聞こえた叫び声を聞いて言葉を止めた。
「行くぞ」
「はいはい」
 その左腕をつかんで歩き始めると、されるがままになってついてくる。

 たどり着いた先は、見慣れたホール。調べを奏でる楽師も、指揮をとる指揮者も、まして踊りの指導者(せんせい)もいない。
 今日は窓が開かれていて、風のそよぎ声が、聞こえてくるようだ。
「手を」
 短い言葉に、伸ばされた手、つながれる。
 高いヒールを履いたリールは、少しだけ視線が高い。二人の間を流れるのは風。二人の中で流れるのは一つの曲。
 夕暮れの踊り。
 リールはすでにドレスを着ていた。青い布の薄手のものを。仮縫いに乗じてアズラルが持参した物だ。足首まで伸びた裾が回るたびに広がる。袖に飾られた石が夕日に反射する。
 しばらく、二人は踊っていた。そして、それが止まる。息を乱した様子もなく、手はつながれたまま。ひとたび手は離れて、腰を折って挨拶。曲調が違う。
 再び踊る。静かに、足音もしない。ただ影だけが重なって見える。
「……基本だな」
「基本を叩き込まれたから」
 それは不変。
「基本しか叩き込まれなかった?」
「踊る必要がどこに、いつ、なんであるのよ」
「一月後か?」
「最悪だわ」
「まぁまぁ」
「楽しそうね」
「そう見えるか?」
 傍目にもわかるくらいカイルの口元が笑っている。セイジュが見たら顔を引きつらせるだろうが。
「見えるわね」
「怒るな」
 あえて、足を踏みつけている。器用な物だ。
「だいたい、私に、踊れと? 人前で、真ん中で、ドレスで、ヒールで、王妃の目の前で、あんたと二人で?」
 そんな滑稽な話、今までに一度だってない。
「別のことをしているほうが楽だと?」
 それは、なんだと言うのだろうか。
「そうね。人殺し?」
 あっけらかんと言う。
「殺しても死にそうにないのが目の前にいるのよね」
「レランだろ?」
「……」
「それともあっちか?」
 窓の外を、何かが横切った。かすかに見えたのは風に飛ばされそうなほどなびいた金髪。続いてもうひとつ。黒い影。
「……選び放題ね」
「もう三人いるぞ」
「時々同情したくなるわ」
 リールに同情される男達……
「誰に?」
 突然、ぐいと腕を引かれる。腰に回された手が熱い。腕を回す暇がなくて胸に押し付ける。もう手を取り合って回り続ける踊りではない。見上げると視線があわさって、ふっと笑う。
「おしえてあげない」
「……なら本人に聞いてみるか」

 踊りだけは優雅なのに、会話は不穏だ。

 ガラガラと馬車の引かれる音がする。城下の通りを進んで行く馬車の目的地はみな同じ。エルディス国グランディア城の城門前にたどり着く。
 正装した男性。そして着飾った婦人が、手を引かれて下りてくる。彼らの横に立ち並ぶ兵士、今日のために飾られた城内に足を踏み入れ感嘆の声を漏らす。
 一方その頃、本日の主役は別の部屋にいた。

「ねぇ、いい加減にしない?」
「「なんてことを言いますの!?」」
 大きな鏡の前に座らされたリールは、うんざりしていた。身を包んでいるのは、一見すると水色か緑か区別の付きにくい色のドレス。少し伸びた髪は上方を軽く結われている。その左右を編みこんでいるのはセナ。
「いや、もう十分でしょ?」
「まだですわ」
 リールの爪を薄桃色に装飾しながらユア。
「まだ爪が終わってませんし、」
「化粧もしてませんわ」
「……」
 リールは、ちらりと台の上に視線を送る。その上に置かれた、これでもかと言うほど置かれた化粧品類。
「普通、化粧からでしょう?」
「「例外です」」
 いきなり例外が当てはめられるのは、どうしてなのだろうか。

「ん~やはり花がなさすぎる」
「なぜ俺に期待する」
 本来であればリールの服を着せているはずの男は、なぜかここにいた。単純にリールの肩書きの問題のせいだが、その代わりとカイルに服を送りつけていた。
 というか、持ってきた。
 正装であればそれでいいので、カイルは文句を言わなかったが、ここに来て疑問を口にした。
「やはり華やかさにかける。というかその面白みに欠ける顔はどうにかならないのか?」
「生まれつきだ」
 静かに、火花が散った気がする。
「はぁ、リーディールも時に平凡な所を好むから」
「平凡?」
 エルディスの王子も、この男に言わせれば平凡の一言で尽きるらしい。
「王族など有り余っている」
「お前の主観か」
 それは職業柄と言うか、知名度の問題だ。
「イーザス」
 まるでカイルの言葉など気にした様子もなく、アズラルは執事を呼ぶ。入ってきたイーザスの手の中にあるものを見て、カイルは軽く目を見張った。
「洒落ているだろう?」
「……」
 その手に移ったのは、レテ国で有名な花屋の花――

「ふふふ~」
 リールのドレスの裾を直すセナ。少しふくらみを持たせたデザインはリールが好む物ではないが、押し切った。色の付いた生地の裾から覗くレースが細く細かい。
「帰りたくなるわね」
「もう帰っておられるではありませんか」
「そういう意味じゃないから」
「知ってます」
「踊ってくださるのでしょう! このドレスで!!」
「なんで?」
 なんでそんな事をしなければならないのか、なんでそんな事を知って――いるわけだ。
「はぁ」
「まぁ。世界で一番幸せであるはずなのに!」
「これぐらいではなくらないでしょうねぇ」
 何その、残念そうな口調は。
「というか、邪魔」
 目の前においてあった宝石をつまみ上げた。これをつけで行けって言うのか?
「そんな趣味の悪い物を」
 嘆いたのは双子。王妃の置き土産だ。
「……私の趣味でもない」
「「こちらですわ!」」
 化粧を終えて、ドレスの裾を直したセナとユアが一抱えはある宝石箱を取り上げる。
「へぇ」
 リールは半眼でそれを見た。
「さささ!」
「開けて下さい!」
 え~面倒とでも言いたそうな視線を送って、リールは台の上に置かれた箱に手をかけた。
 重みを感じる箱の中に入っていたのは、銀色の台にはめ込まれた石。
「ラリマーですわ」
「ペクトライトですわ」
 同時に言った双子の言葉が、違う。
「どういうことよ」
 双子は、静かに視線を交わしていた。
「「ちょっとしたミスです」」
 なんだそれは。
「だいたい、同じ物でしょう」
 はぁっと頭を押さえる。
 大きく開かれた胸元に飾られたのは、銀の台にはめ込まれた青い石、それを囲むように細いチェーンを編みこんでさらに銀の宝石。
「……あの男」
「アスラル様ですか?」
 ふふふと、セナが笑う。
「ですわ」
 くすくすと、ユアも笑う。
 別に、この二人を敵に回すつもりはないけど、ね。
 箱の中の石の青さに引かれて手を当てる。静かに持ち上げてかざす。小さく、笑った。
 すぐに、その笑みに気が付かれないようにと顔を下げる。それと後ろの扉が開かれるのが重なって、双子は意識を逸らしていた。
「遅い」
 ノックもしないで押し入ってくる影。それは、
「もう、王子様」
「ちょっとリーディール様を借りたくらいで怒らないで下さいまし」
「そうですわ。今日や明日や明後日の夜と朝のリーディール様は王子様のものなのに」
「本当ですわ。それに関して不満でもあるならそれはご自分のせいだと考えるべきですのに」
「……普段から、こうなんだろうな」
 どこか呆れたような響き、でも口は挟まない。そのことを疑問に思っているようじゃ、まだ駄目ね。
「さぁさ王子様!」
「姿が見れて安心したでしょう!」
「「女性の身支度には時間がかかるのです!!」」
 そう言って、まだ何か言い足りないであろうカイルを部屋から追い出したのは双子。
「ぉいっ!?」
 手を伸ばしかけたカイルの目の前で無慈悲に扉は閉じられる。
「……はぁ」
 額に手をついて、ため息をついた。
「「愛されているんですねリーディール様!」」
 互いにこの双子に遊ばれているようじゃ、駄目ね。

 数時間は廊下に放置されていた。確かに始まりの時間まではある。あるにしても、だ。
「だから言ったであろうに、無駄だと」
 颯爽と現れた、いつの間にか礼服に着替えた男が言う。
「出席するつもりか」
「当たり前だろう」
 何を言うのかと言わんばかりだ。
「せっかくの着飾る機会だ。あの双子が燃え上がらないはずなかろう?」
「婚儀の時があっただろう」
「あれはあれ、これはこれだ」
「……」
「ぁあしかし、ずいぶん念入りなことだ。まぁ、私は楽しませてもらうとするよ」
 意味深に言い切って、男は登場した時と同じように颯爽と廊下を進んでいってしまう。部屋の前に取り残されたのはカイルと――もう一人。
「警備の守備は」
「万全ですと、申し上げたい所なのですが」
「なんだ?」
 なぜ今の今まで万全にやってきているのにここに来て、今日、問題があるんだ? ぁあ?
 どこか不穏な、いや不機嫌な主の空気を感じ取ったのかレランが頭を下げる。そして言った。
「あれが、警備に当たると宣言しまして――」
「あれが? あの男がか? 頼んでも逃げ出して料理を食いつくしてるか婦人と踊ってるか一目散に逃走して木の上で寝てるあの男がか?」
 いつになく口数が多い。
「はい。どう致しましょうか、どこかに閉じ込めておきますか?」
「そんな事のために無駄な体力を使うな。……いいだろう。少なくとも邪魔をするわけではないのだろうからな」
 邪魔をしたら、その時は――
 むしろ奴を警戒すべきか――
 この時に主従の心で交わされた会話は、どこか似通っていた。ある一点において。
(邪魔をしたら、)
(不審な真似をしたら、)
 即刻切りかかるまでだ、と。

 さてその頃、カイルとレランにぼろ雑巾と同等の扱いを受けているセイジュは――
「ぶぇっくしょぃ!!?」
 大きなくしゃみを一発。近場にいた兵士に一歩退かれている。
「なんだよ」
 後ずさったままの兵士の視線を睨み付けて、問いかける。
「隊長。ほんとーのほんとのーほんとーに警備に参加するんですか?」
「遊ぶんでなくて」
「毒見と称してツマミ食いをするのでなくて」
「眠気を振り払うためと踊るんでなくて」
「どういう意味だお前達。まるで俺が警備に参加せずに遊んでたほうが正常だとでも言いたいのか?」
「そうですよ」
「……」
 トドメと言わんばかりの副隊長の声に、兵士一同がうんうんと頷いている。
「お前達、俺をなんだと思ってる」
「サボり魔でしょうか?」
「逃走常習犯?」
「昼寝常習犯だろ?」
「お前ら……」
 脱力したセイジュはそして、怒った。
「しかし変ですねぇ。今日は隊長が自ら参加するほどの大行事が起こるということなのでしょうかね?」
 部下と言い争う隊長を横目に、副隊長が呟いた。

 外の会話など、聞こえるはずもない。数時間前から部屋にこもりっきりのリールには新鮮な会話になったであろうが、聞こえていない。
 最後の仕上げといわんばかりに立ち上がって裾を調節する。くるりと回って――動きやすさは上出来。身体を締め付ける危惧を徹底的になくしてデザインでカバーしただけに。
 しかしそれも、万が一の時は一早く戦いに投じられるようになっているのだからおかしい。絶対におかしい。
 腰を縛る大きなリボンの皴(しわ)を伸ばして、肩口と袖を繋ぐリボンの捻れを戻す。肘の少し上は細く、手首に向かって大きく開いた袖。スカートは踊りで舞い上がるように……そして絡むことないように。
「できましたわ!」
 だが、完成ではない。そうなのだ、この双子の終了の合図を見極めるのは難しい。
「そうね。もう時間だし」
「ぁあもっと時間があれはここを……」
「そうね、こうしてもいいでしょうし」
 果てない感じだ。とにかく、今だ。
「終りよ! おーわーり! さぁ行くんだから離して!!」
 一歩進み出て、二人から距離を取った。
「もうリーディール様」
「会場は逃げませんわ」
 どうしたらこんなでかい城の中の会場が逃げるんだよ。
「あ、間違えました。逃げるとしたらリーディール様ですわね」
「……この後に及んで?」
 おかしくなって、笑った。
「「はい」」
「そうしてきたわね」
 ヒールを履いて、颯爽と部屋を歩いて扉に向かう。手をかけるとすぐに開かれる。
 ゆっくりと、振り返って言う。
「ありがとう。ユア、セナ」
「「いってらっしゃいませ」」
 うしろで頭を下げる二人を見送って、差し出された手を取った。

 廊下を進んでいく。こちらは、招待客の道ではない。あとは私達が通ることだけを待っている廊下。
 今から華やかな舞踏会に向かうと思うと、気が思い。しかも、向かうのは、戦いの場所。そう、もう戻れなくなる。
 これまでの自由を奪う戦いの場所。
「いいのか?」
 静かに、聴いてくる。最後のさいごまで。
「いいのよ――?」
 ふと顔を上げて、視線の先。胸のポケットに刺さった一輪の花。
「趣味が悪いわね」
 一度摘み上げて、もとに戻した。
「お互い様だろう?」
 丁度いいとばかりに、髪に口付けられる。仕返しとばかりに、胸倉をつかみ引き寄せながら背伸びをした。靴の踵を覆うヒールのおかげで、背は誤魔化せている。
 唇は触れるだけ。ほんの数秒。
「ストップ」
 一時呆けて、返そうとする行動を制す。そうでもしないと、飾り上げられる時間おとなしくしていた意味がなくなる。すでに、髪の中に差し入れられた手に乱されているのだから。
 かなり不満そうにしているが、無視した。簡単に髪を整えて、なお食い下がるのでその手に爪を立てた。双子は抜かりなく磨いた後、長い付け爪をつけてくれた。食い込んでいる。
 だがカイルは平然と、警備の兵士を振り返っている。もう人目がある。手の力を抜くと、今度は逆に強く捕まれた。
「いいだろう、」
 続きは、耳の中に吹き込まれた。――最悪。

 四人がかりでようやく開く大きな扉。開場した時は開け放たれていただろうが、今は閉じられている。
 それが、こちらの歩みにあわせてゆっくりと開かれる。聞こえてきたのは、国王の口上。
 視線はみな王座の王に注がれていてこちらに気が付いたのは王と横の王妃ぐらいか。
「……いいのか?」
 再び、問いかけ。
「どういう意味?」
「逃げるなら、最後だ」
「どこへ?」
 例えば、逃げ込んだ場所は、正しかったのかもしれない。
「……逃がさないんじゃなかったの?」
「後悔するなよ」
「どうして?」
 逆に問いかけた。国王の口上は終わりに近づいている。集まった領主、諸国の代表。これで、公となる。今まで何を隠してきたのかと問われるとそれも怪しいとは思う。
 だけど本当に、後には戻れない。もう戻らない。
 今度は、力をこめて手を握り返した。
「何も変わらないわ――私は」
「……そうだな」
 たぶん、変わったとしても、それは自分が選んだ方向に変わるから。もう誰かに、道を決めさせたりしない。
 国王の口上が終わる。最後に、呼ばれる。
「みなに集まってもらったのは他でもない。すでに聞き及んでいると思うが――」
 さぁ、私達が呼ばれている。

 開かれる扉の音が通りすぎて、すべての視線が集中した。どこも見ていない。見すえるのはこの場ではなく先。
 客人が左右に分かれて道ができる。真っ直ぐに国王のいる玉座の下に向かう。
 顔を下げることも、足取りが止まることもない。繋がれているのは手、並んで向かう。
 国王と王妃の玉座の下で一礼して、振り返った。広がっていた道はふさがれて、周囲が円形に広がっている。ゆっくり微笑んで、誘われるように頭を下げた。
 重ね合わせるように国王の言葉と、ついで広がった祝いの声。どこからか、音楽が聞こえてきた。
 それはしずかに、ただし確実に。
 今度は一歩進み出たカイルのうしろに続いてホールの真ん中に進む。
 開いていた手を首に回して、カイルの手が腰に回ったその瞬間、一段と大きな音が響いて音楽が踊りだした。

 ほぅっと、感嘆のため息が漏れた。ホールの中央で踊る男女は、先に国王に紹介されたものだ。
 この国の、第一王子の婚姻。二度目のそれは領土と諸国に驚愕をもたらした。なんといっても、あの王子の評判は……いいとか、悪いとかいうレベルではないから。
 むしろ、得体の知れないものだ。
 あわよくば、と、娘を送り込む領主がいないように、妾にと送り込む国王もいない。詰まる所変人だ。
 そして、その相手の一風変わった噂。まことしやかに流れているものだが、真実を知る物はいない。
 だからこそ、人が集まったともいえる。

 流れている曲は三拍子のワルツで、定番である。二人が回るたびにスカートの裾がふわりと舞い、袖口が揺れる。緩やかな中に起こる流れに人々が見ほれているのを、にやりと笑いながら見つめるこの男。
「ふっふっふっふ」
「もうアズラル様」
「口元を押さえて笑う癖はおやめにならないと」
「まるで誘拐犯ですわ」
「……ぉい」
 それは聞き捨てならないのだが。
「駄目ですわよ。連れて帰ったら」
「まず捕まえられませんわ」
「「ねぇ」」
 首を傾げて、笑う双子。
「……」
「いつも大人げのないことばかり」
「まぁ、気持ちはわからないこともありませんけどね」
 いま、リーディールはこちからかは影となっていて見えない。――あの男の。ただ風においていかれるようにスカートが揺れるのが見える。
「本当に、ああしていると別人みたいですもの」
「あの島は安息地ではないのだよ」
 あの島の、どこもかしこも。問題は場所ではない。関わる人と、あの獣達。
「ですけど」
 思えば、いくつもの顔を持つ娘だった。どれもすべてが、作り物だとしても。
「お手並み拝見、か」
 手を離れていった。最初から留まってなどいなかったのだから。だからこそ、行く末に興味がある――

 高いヒールに、舞い続ける布地。ふわりと、身体が浮いた。見世物にしてはサービスしすぎだと思った瞬間、指揮者が動いた。遠くで、王妃の笑い声を聞いた。
((曲が変わった!?))
 ホールの中央に戻って、流れる曲と共に手を離す。次瞬間の早いステップは左足からはじまる。

 一糸乱れぬ同じ足の運びに、再び招待客の口からため息がもれる。
 そん中、玉座に座った王が隣に声を掛けた。
「――王妃よ」
「あら、何かしら?」
 はぁと国王は隣にしかわからない程度にため息をついた。曲が終盤に差し掛かった途端、まったく違うテンポの別の曲に変わったのは偶然ではない。他意だ。
 にこにこと微笑む王妃。むしろ怪しい。

 左右で、同じステップを踏む。最初は玉座に向けて、顔を上げずに。次は、広間に向けて。今度は顔を上げて、一度、目を合わせた。それが合図。
 走り出したリールに驚いて、道が開ける。一歩遅れたカイルが追う。追いついて、手を取る、その瞬間が曲の山場。
 重なった手と、指揮者の棒が一段と大きく振られたのは同時。
 今度は手を取ったまま進む。また同じようにステップを踏みながら。軽快に流れる音楽と同じように、靴とヒールの音が響く。
 そして、合間。一段と速い曲調の後に曲が落ち着くのを知っていたかのように、リールは長椅子に座り、カイルはその手を取ったまま後ろに回る。
 その様子を追うように首を傾けていたリールの左後ろから、カイルが口を寄せた。
 一瞬、唇を奪われたことにリールが反応する前に強く手が引かれた。
 そして再び、二人はホールの中央にいた。長い曲が終わりに近づき、次の曲が始まる。
 もとより、最初のダンスを勤め上げれば、次からは招待客も踊り始まる。
 カイルは静かに視線を送った。一組、もう二組と、手を繋いだ客人たちが中央に並ぶ。

「ほぉ?」
 国王は、ただ見守っていた。王妃は、にこにこと微笑んでいるが、事実もっと悪質な笑みに近い。
 そしてホールが踊る人々でいっぱいになる。
 曲が終わり、再びワルツが流れる。早いステップを踏む踊りはまたそれから。
 指揮者が、再び大きく棒を振った。それは、はじまりのお辞儀。
 次に、手を取って男女が踊る。まさにその時。
「あの子!?」
 王妃が、驚愕の声を上げた。幸いにして、国王と側近の兵士にしか聞こえていない。
 それは、国王の視線にも入っていた。
 ホールの中央で多数の男女が手をとりあう中、左右の手をつないだままホールを去る影を。
 よりにもよってその二人は、閉じ行く扉が閉じきるその瞬間、一度玉座を振り返ったのである。――晴れやかな、笑顔で。
 今やホールはダンス会場と化している。この合間を潜って、兵に伝令を伝えるのは大変である。それに、伝えた所で、おとなしく帰ってくるような二人ではない。
「確かに踊れとは言ったが、最後までとは言っていなかったな」
「あなた!? そういうことではないのですよ!」
「まぁまぁ」
 そう言って国王は立ち上がり王妃が持っていた扇を取り上げた。講義の声も聞かず、傍らの兵に預ける。
 一向に収まらない王妃の手を取って唇を当てて、ダンスに誘ったとか。

 当分の間、リールは王妃に捕まるたびにこの時の話を延々と聞かされることとなる。

「二曲も踊らされるはめになるなんて思わなかったんだけど」
「っおい。わかったから踏むな」
「だいたい、なんてことしてくれるわけ」
「だから、踏むな」
「~~~!」
「わかった! ……すまない」
「………」
 ここは城内でも有数のテラスだ、下に見える庭には噴水と、花壇。空を覆う物は何もなく、今はテーブルと椅子も片付けられている。
 広間から聞こえてくる静かな音楽に、二人は身を任せるように寄り添って揺れていた。
 のだが、足下をよく見るとピンヒールの下に何かが踏まれているのが見えるかもしれない。
 流れる音楽に任せるまま、立て続けに二曲踊った二人は広間を抜け出して(こっそりではない。むしろ堂々としたものだ)ここまでやってきた。
 正確には、本当ならすぐにでも帰りたがるリールを無理やりカイルが連れてきたとも言う。
 リールはあの踊りの最中の行為に怒っているのだが、手を取り合って曲と相手に身を任せながらいくら怒ったところであまり効果はない。
 ので、実力行使に出てみた。踏まないようにすることができるということは、踏むようにすることもできる。しかも力いっぱい。
 こんな時、セナとユアならどうするだろうか。というよりも、あの二人も当然あの場にいたはずであって……
 考えれば考えるほど頭にくるらしい。ステップを踏むはずの足が動いた。
 ところが、今の今まで見過ごしていたはずなのに、今回は違った。
「んぐっ!?」
 急に引き寄せられて態勢が崩れる。あごと頭に手がかけられて動けない。淡く薄い布を重ね合わせたドレスから、体温が伝わる。
 熱いのは同じ。
 ふとセナとユアがあんなに頑張って着飾ったものも、一時の瞬間のものかと思うと、次はもう少し協力的でいようかとも思う。
 だけど、最初からあんなに着飾らなければいいと思うんだけど。

 さて、その頃……
「暇だなぁ~」
「いいことですよ」
「なんか面白いことしろよ」
「それは、隊長の専売特許ですから、私が奪うわけにはいきません」
「隊長思いの部下でいいこったなぁ~」
「そうでしょう」
 笑顔で、壁際に張り付いた対の隊長と副隊長の会話を傍らで聞くことになった兵士は冷や汗を流していた。
 寒い。心が。というか空気が。
 なぜ、セイジュとその副隊長が共にいるのかというと、セイジュが警備に回るなんて誰も考えてなかったから、場所を確保してなかったんだ。ついでに、余計なことをしないように監視も含めて。
「……あれが見たかったんですか」
「ん~なにが?」
 どこ吹く風で、頭をかきながらセイジュはいう。
 警備のものは、ある意味では見晴らしのよい場所に立つことができる。広間を見通す二回の渡り廊下とか、玉座の後ろとか。あとは壁際、窓際。
「さぁ~てと、帰るか」
「どういうことですか」
「俺の護衛の対象はもういないから」
「……隊長?」
 にっこりと効果音の後に、あてつけの様な疑問符。兵士は逃げた。
「あなた、自分の仕事理解してます?」
「昼寝」
「いい度胸だな」
「!?」
 タイミングよく、見回りに来た影。彼は一所には留まらず、全体を見通す役目だ。
 セイジュの背後に立って、低い声。セイジュの背中を冷や汗が流れた、
「……あれ?」
「調理場のほうで料理を運ぶ係りが忙しすぎるので手を貸してほしいと言われたところだ、行ってこい」
「食べ放題!?」
 ひくりと、レランの頬が引きつった。
 広間を多い尽くすように踊る招待客のうしろで、蛙がつぶれるようなうめき声がしたとかしなかったとか。

「ん~おいしいけど、これならうちの料理長の料理のほうがおいしいわぁ」
「ねぇアズラル様。料理長も呼びましょうよ。こっちの料理もまずくはありませんけど」
「自分達で作ったらどうだ?」
「「まぁ」」
「日々アズラル様にこき使われて、」
「身も心も削る思いのわたくし達に、」
「「仕事が終わった後も働けと?」」
 そろいも揃って、口もそろえて。一人ならまだしも、二人分、四つの目が非難の色で見つめてくる。場所が場所なのだから、もっと違う視線があるだろうにとアズラルは考えている。
「嫌ですわ。染め布をしてただでさえ手が荒れているのに水にさわるなんて」
「指の先が固くなるまで刺繍をして擦り切れそうな手なのに火に近づくなんて」
 ちなみに前アズラルのエルディスの住居では、食事はイーザスが作っている。洗濯はセナとユアの仕事だが。
 実は、セナとユアが料理ができないわけではない。させないだけで。
 イーザスが昔二人に調理場を任せ、そして激しく後悔したからこそ料理長を雇ったのだ。そんな二人を調理場に入れるくらいならと彼は食事の支度を買って出たのだが……いかんせん味は普通だ。アズラルは、朝は彼の食事を食べ、昼は簡単に済ませ、夜は双子と共に食事に出ることが日課になっている。
 そう、双子の料理は壊滅的であるのだが、いまだアズラルはその事実を知らない。
「……踊るか」
「「そうですわね!」」
 そう言って、双子は立ち去った。――相手は自分で見つけろということらしい。
 数分後、新しい曲で踊る双子の姿と、いまだに相手を探すアズラルの姿があったとか。

 王妃はご機嫌だった。さっきまで息子とその嫁に怒り狂う寸前だったのも忘れている。
 なんといっても、彼女はこういった場が好きだ。今でこそ王妃となって見下ろす立場にいるが、若い頃はこういう時は夜通し踊り続けた物だ。
 それにおしゃべり好き。これは今でもお茶会を多く開いていることからも窺える。
 そして国王が共に踊ったのだ。若い頃この王は自分の身分を偽って仮面舞踏会などに出席していた。フレアイラは領主の娘であったが、舞踏会に王子様が来ているという噂を耳にすることはあっても、目を輝かせることはなかった。
 普通の娘なら憧れてもよさそうな物だが、フレアにとっては大事だったのは身分よりいかに自分を満足させてくれるかどうか、だったのだ。
 確かに身分だけ見れば申し分ないだろうが、地位が高いだけで役立たずの男達を見てきたとも言える。一番は、自分の父であった。領主という肩書きに溺れた、何もできない父。ただその力を欲した母。一時の満足は長く続かない。
 そんな中であったのは今の夫――
 突然、侍女に飲み物を運ばせて、しばし沈黙していた王妃の顔が輝いた。
 国王はあきらめたようにグラスを戻した。そう、曲が変わった。
 国王と王妃は、この日踊り明かしたらしい。

「なんだって?」
 それが、王子の第一声だった。予想した通りとは言え、かなりいらついている。
「国王陛下と王妃様がいまだに起床されません」
「で?」
「見送りは頼んだと伝えるようにと」
「何をしているのだ。あの二人はいい歳をして」
「昨晩は踊り明かしたようでした」
「だから、歳よりは引っ込んでいろ」
「そう? 骨になるまでこき使ってもいいんじゃないの?」
 後ろから声が割り込んでも、会話は進む。カイルは振り返っていった。
「それは、相手が自分より劣る場合だけだ」
「勝てないんだへーそう」
「お前、どうしてほしいんだ?」
「王子、支度をしていただきませんと遅れます」
「………だるい」
「頑張って……ちょっ!?」
 面後臭いといわんばかりに髪をかき上げたカイルに、人事だと適当に声を掛けて寝室に戻ろうとしたリールが捕まった。
 暴れるリールを無視して担ぎ上げて歩き出したカイルの後ろから、レランが付いていった。

「それでは」
 がらがらと馬車が去っていく。王と王妃の様子は見知っているのか、見送りに来たのが王子と王子妃でも誰も何も言わない。むしろ微笑ましいとでも言わんばかりに笑顔で去っていく。
 まぁ送る側も笑顔だから。見た目は。
「……踏むな、いい加減」
「い、や」
 朝から、寝起きから借り出されたリールは不機嫌だ。嫌がらせなのか、長くてずるずるとしたドレスを着込んできたと思えば、それの裾で隠してカイルの靴を踏んでいた。
 はたから見れば、かなり近い位置で立ち並ぶ新婚夫婦。だれも近づかない。さっさと帰っていく。
 それは、新婚だからと遠慮したからなのだろうか、それとも何か不穏な空気を感じ取ったからなのだろうか……例えば、首筋がピリピリする、とか。
「これはこれは王子様、見送りはよいと申し上げましたのに」
「気にするな、父上の代理だ」
 近づいて声をかけきたのは、リールの知らない男だった。いや、知らない人のほうが多いが。こうやって親しげに近づいてくる人間は貴重だ。
「メジュルの宰相だ」
 疑問に思ったリールに対して、カイルが説明する。男性は顔のしわをさらに深くするように微笑んで、口を開いた。
「はじめまして王子妃様。グウェル・カーナーと申します」
「はじめまして」
 暇を持て余していたので、こちらで習ったとおりに礼をした。
「知っているな――リールだ」
「ぇえ聞き及んでおりますよ。お綺麗な方で」
 なんとも言えず、リールは曖昧に笑った。
「そうだろう」
 迷わず答えたカイルの足を踏みつけた。

 そんな様子を、傍目から一歩引いた所で立ちながら見ているのはレラン。
「……十二か」
「は? なんの事です?」
 隣に立つ兵が呟きを聞きとがめて問い返した。
「いや、なんでも。あの小娘も大概に――無理か」
「王子妃様ですか?」
 その王子妃と王子は、一人の男性を見送っていた。

 舞踏会が終わって帰る人々にもいろいろいる。朝一で発つ人もいれば、せっかく王城まで来たのだ、存分に世話を焼いてもらおうと考える人間もいる。ここに、
「あんたの場合、常にでしょう」
「おやリーディール。見送りは終わったのかい」
「終わり――朝の分はね」
「その服はどうだい? 古代の女神を――」
 そう言ってアズラルが振り返るとすでにリールはドレスを脱ぎ捨てて違う服を探していた。
「もう少し労わったらどうだね」
「何を?」
「もちろん、私を」
「冗談」
 そして、洋服ダンスからワンピースを取り出すと鏡の前で体に当てていた。
「今日はその格好か」
「……まだいるからね、お客が」
 ちなみに、セナとユアはまだ休んでいる。彼女達も、夜の舞踏会で躍り明かしたくちだ。
「ならばこちらのほうがよかろう。これなら靴も隠れるし、胸元を締め付けることもない」
 ヒールを履かないことが前提で、上は首まで覆うこと。さらに言うなら、次は遅い朝食だ。
「そうね」
「それと、上着と石を見繕おう」
「邪魔だからいらない」
「……しかたないな」
 そう言いながら、アズラルは続きの間に消えた。何を探しているのやら。
 背丈を越える鏡の前でリールが着替えを済まし、自分の姿を見ているとアズラルが戻ってきた。その手には淡い色の布地がある。
「こっちを向け」
「?」
 くるりと振り返ったリールの後ろに布を回し、手早く結ぶ。丁度胸元で大きなリボンが結ばれた。それから短いボレロ。合わせ目は作られておらず、金の鎖で繋がっている。
「助かるわね」
「はっはっはもっと重要視してもらっても構わないが」
「いつもしてるでしょ。行ってくるわ」
「そうだな」
 部屋を出る寸前、リールは扉から顔だけ出して言った。
「ぁあそれから、食事はきちんと取るのよ。おじいちゃん」
 彼女はいつも、一言余計だ。

「しかし、こんなことになると思わなかったな」
「そうです、か?」
 何か苦々しい物が含まれた言葉だった。一緒に剣が引き抜かれている。完璧だ。
「まぁ待て、さすがにここで流血沙汰は控えろ」
「なぜです?」
「気持ちはわかる。後始末もいい。だ、が、俺がここに座った時思い出したくない」
 見えるのは玉座。視界に入れたくないのは寝そべって眠る影。床に、そのまま。どうやら酔いつぶれたらしい。昨夜の間に。
 無言で剣を引き抜いた護衛に声をかけたのは王子。うしろには、引きつった顔の兵士がいる。
(たいちょーまじっすかぁー?)
 隊長(セイジュ)は昨夜、護衛対象が広間から姿を消した瞬間からお酒を飲み始めたらしい。
「給料から天引きだな」
 招待客意外は自腹だ自腹。おれ? なぜ支払う必要がある。

「で、なんなのよ」
「何かありましたか?」
「なんなのかと聞いているのよ」
 この料理の量について。いや、いつもこれぐらい食べるけどね。そうじゃなくて、なんで最初からこれだけあるのかってこと。
「それが、朝食をご一緒にと申し上げたのですが、みなさま」
「そういうことじゃなくて」
「はい?」
「まぁいいわ」
 危ない、ため息をつきそうになった。ここでため息でもつくと侍女と給仕と料理人が固まる。それでもずいぶんなれたものだと思うけど。
「カイルは?」
「王子様は、まだ」
 言いかけたうしろから扉が開く。リールはフォークを手にとって、赤いトマトに突き刺した。
「遅い」
 そう言って、ぱくりと食べる。
「ああ、悪い」
「何疲れてるのよ?」
「いや、ちょっと」
 まったく、あの男には悩まされてばかりだ。
「いただきます」
「頂いてます」
「……」
「なに」
「いや」
「嘘付け」
 何を笑っているのよ。
「怒るだろう」
「当たり前。……だから、何笑っているのよ」
「だから怒るだろう」
「聞いてないけど」
「いや怒るだろう」
「どういうことなのよ」
 “このやり取り”が。
 まったくと、リールはフォークを持ったままの手を頭に当てた。
 これでも侍女の一人も卒倒しなくなった物だから成長した物だ? いや、彼女達はもともとならされているはずなので――
 ほら、いまも壁の端でくすくすと笑いが漏れる。
「気にするな、たいしたことじゃない」
 そう。たいしたことじゃない。共に食事を取ると決まった日に送れた時のこと。遅れるから先に食べろと言っても部屋に来る直前までは待っていることを。
 それでいて、部屋に入った時には食べ始めている様子を装っていることを。
 ほんの些細なこと。

 とっても重要な感じ?
「あのですね、」
 目が覚めて、あくびをする暇もなかった。
「質問はひとつだ」
 最後の言葉は、何になるのだろうか。
「えっとですね」
「二秒しかまたん」
「なんで死にそうなんでしょう!?」
「自業自得だ」
「どうして!?」
「質問はひとつだ」
 びりびりと空気が震えている。相変わらず顔が映るほどよく磨かれたレランの大剣をセイジュは両手で挟んでいる。頭の上で。
「死にますよ!?」
「願ったり叶ったりだ」

「どうするんですか?」
「止めに行きたいというなら止めないが」
「そんな命知らずは副隊長じゃないんですか?」
「王子様とその妃で十分だ。お二人は?」
「朝食です」
「……俺達も行くか」
「そうですね」
 そう言ってセイジュの隊の隊員は皆、目の前の危機的な状況(セイジュが)から目を逸らした。

 夜のなごりは、昼の日差しにかき消されて行った。

 それから数ヶ月。

「……ん」
 ふと、寝台の上でリールは目を覚ました。雨が降っているらしく水の音がする。
「さむ」
 冷え切った寝台の上で掛布を引き上げる。すでに一人だ。ずいぶん前に出たのか、それとも寝坊したのか。気が付かなかった。
 鈍くなっている。前ならすぐに気配を感じたのに。それだけ居心地がよいことを警戒する。だが、その中に浸っている。
「おはようございます」
「おはよう」
 侍女が数人入ってくる。これでも減らした結果だ。
「あいにくのお天気ですね。王子様は大丈夫でしょうか」
「なにが?」
 そう問い返すと、一瞬侍女の顔が強張った。
「……王子妃様」
「はい?」
 そう呼ぶなと言っても、無理だとあきらめたのは最近の話。
「今日は町の巡回範囲を広げる日ですわ」
 そういえば、何か昨日誰かが言っていたような。
「王子妃様。わたくし達から申し上げることは何もありませんが、お気をつけいただきませんと。大臣や先生方にお聞かせしたら大目玉ですわ」
 朝、カイルは朝議か町の視察に行っている。それぞれ日によって異なる。まぁつまるところ先に起きて先に出かけているだけだ。
 町に出るなら連れてけと行ったが、カイルにしては歯切れ悪くまだ叶っていない。
「……レランは」
「レラン様は王子様とご一緒ですわ」
「そうよね」
 そうなのよね。着替えと洗顔用の水を置いていく侍女を目で追いながら、扉の先に視線を向ける。今日はカイルが朝食の席にはいない。
 一度目を閉じて、開く。心は決まったようだ。

「あ、いたいた」
「小娘……」
 回りの兵士が、自分の声音と、その言葉の意味するものを見て絶句する。気安く軽い足取りでこちらに向かってくる、その姿。
 雨を避けるためか、深くローブをかぶっている。色は薄茶色。細身の影であるが、一見しただけでは誰だかわからない。兵士には。
「なんていうか、目立つわよね」
 それをその人だと一瞬で見分けたことにだって驚いているのに、その人は自分の知名度は棚に上げてこちらを見てそういう。
 ここは、町の裏路地の角。細い道。住宅街の多い一角。
「……」
 これでも密かに行なわれるはずの視察だ。軍服にマントを羽織り、目立たなくしているつもりだが、あまり意味がないこともわかっている。
 だから、この視察の日程を行なう間隔は定まっていない。
 旅をしていた時と同じような身軽な格好に剣。これが舞踏会で踊っていた娘だというのだからおかしい。絶対におかしい。
「なぜここにいる」
「探したのよ。まぁ特徴を言えば町の人たち察したみたいで目撃情報があったけど」
「なぜここにいるのか聞いている」
 普通なら、王子妃の話を遮ってまで意見する物はいない。本人がやさしいならともかく、普通はうっとうしがられるだけだ。
「連れてけって頼んだんだけど置いてかれるから」
 レランは、カイルのその行動に激しく同意していた。
「邪魔をするな小娘」
「邪魔しないけど」
「存在が王子の邪魔をしている」
 そこにいるだけで、十分だ。
「なにそれ?」
 わかっていない。この娘。そこにいるだけでどれだけ王子に影響を与えるかわかっていない。
「小娘」
 低い低い声に、それまでどうしたらいいのかわからずにハラハラしていた兵士達が震え上がる。
「見て回るだけよ」
 気にした様子もなくリールは言う。
「一人で行け」
「下手についてこられるよりましだわ」
 うしろから、護衛が。城を抜け出したことはあるが、やはり独りきりと言うことはなかった。
 はっと、幾人かの兵士がリールの言葉に耳を傾けた。
「慣れろ」
「……慣れろねぇ」
 しばらく、リールは考えた。そして、一言。
「カイルは?」
「……」
 今頃か? レランは怒りと呆れを隠すつもりはなかった。そして、どうした物かと考えている。
 兵士達に、一番の緊張が流れた。
 繰り返されない、一時。
「王子は、連れて行かれた」
「……私の指揮下?」
 唖然と口をあけて、リールは閉じる。そして、沈黙。しばらく思案した後言った言葉がこれだ。しかも、その王子の直属の部下の前で。
「調子にのるなよ小娘」

 くすりと、笑い声がもれた。それは女の声で、薄暗い部屋の中。人一人横になるのに十分な寝台の上。雨は、まだ止まない。
 女は寝台に座って、手を伸ばす。最初は、髪を撫でるだけ、それだけでは飽き足らず、頬に、首筋に手が移る。最後に唇が寄せられて――
「香水臭い女はお断りだ」
「っ! 起きていらっしゃったの?」
「さっきだ」
「もっと眠っていられるといいのに。いい夢を見ましょう」
「断る」
「なぁぜ?」
 髪の長い女は笑う。
「お妃様は、ずいぶんとわがままだと伺いましたけど?」
「どこが?」
「……」
 ひくりと、女は頬を引きつらせた。いや、自分の耳に入ってくる情報だけ聞いても、今の一言ではプラスに浮上するはずない。なのに、
「お前と比べる以前の問題だ」
「まぁ」
 くすくすと、気分を害した女が笑う。口元に手を当てて、楽しそうに。それは、敗北を知らない女の笑い。
「誰に頼まれた? リャンか、タドアか、センシレイドか?」
 それは、領土外の国の名前。
「さぁ? なんのことですか?」
「それか、大臣」
 女は、口を開くのをやめた。
「東のほうの、な」
「そんなの、どうでもいいわ」
 そういって、寝台ににじり寄る。けして広くない上に二人。脆い木が悲鳴を上げる。
「簡単なことでしょう?」
「断る」
「あら、まだ何も言ってないわ」
「妾を取れと言う話しか? それとも金銭目当てか、地位か、権力か、領土か、情報か。どうせろくな話じゃない」
「ひどいわ」
「何がひどい物か。お前達の悪行よりましだ。いい加減、ここを去ってもらおうか」
 きょとんと、女は首を傾げた。
「なんのこと?」
「気が付かれないとでも思ったのか。盗賊団(フィーレイト)」
 女の顔色が変わった。そして、部屋に現れる人影。天上は一部落ちて、扉は開く。
 部屋を埋め尽くす黒い影が五つ。それと女が一人。距離を取った女を見送って、カイルは立ち上がる。窓を、背後に。
 回りを埋め尽くす刃物。一歩進み出た影が口を開く。
「こちらとしても、穏便にすませたいものですが」
「誰の差し金だ?」
「あなたを相手にしたいと言う者は五万とおります。取引先には、苦労しませんよ」
「ずいぶんと回りくどいことをする。こんな危ない橋を渡るよりは、もっと確実な方法があるだろうに」
「あいにくと、貴方の身柄を捕らえるより困難ですよ」
「それは、甲斐あったということか」
 本人は、嫌がるだろうが。これを片付けるのが先だ。まったく、潰しても潰してもはびこり始める。今日視察を入れたのはこのためだ。
「警告は一度だ。お前達はこの国の人間ではない。一度目は許そう、国に帰れ。だが二度はない」
ガッシャーン!
 突然、カイルの言葉に続くように窓ガラスが割れた。正確には何かが窓をぶち破って入ってきた。
 飛び散るガラス片、木片。
「誰だ!?」
 男たちは一斉に警戒する。女も同じ。剣を向けられたままのカイルですら、目を丸くして言った。
「何をしている」
 驚いたように、だがどこか平静なまま。
「暇つぶし」
 ぱんぱんっと、埃を払って立ち上がる。
「レランは」
「呆れてる」
 カイルの視線より目の前をぐるりと一周。一人の女と、武装して剣を突きつける影というか男たちが五人。その中で剣を突きつけられているカイル。
「知り合い?」
「違う」
 結論を一言。答えも即答。
「盗賊だ」
「盗賊団? にしてはずいぶん貧相ね」
「盗むのは現金じゃない。地位と権力と、領土だ」
「うまい商売ね」
「そうか?」
「そうよ。そのためにはお金に糸目をつけない輩にとってはね」
「だ、誰だ!?」
 しばらく呆然と立ち尽くしていた男たちがわれに返る。
「王子妃……」
「これが!?」
 だが、それも女の一言で事足りたようだ。
「何。文句あるの?」
 そう言ったリールに向かう。剣先。そう認識したのは一瞬。
 リールの口元が、笑うように上がる。その腰に差してあったはずの二振り目の剣が消えている。
ガキン!
「言っただろう、――二度はない」

 部屋の中は乱闘状態に突入した。しかし、この場所は対照的に静かだった。
「飛び込みましたけど……」
「飛び込んだな……」
「……いいのか?」
「放っておけ」
「しかし隊長」
 リールとカイルのいる部屋の窓の外。隣の建物の屋上から様子を窺う影。先ほどまで、その場にもう一人いた。オレンジ色の髪の娘が。
 その娘は屋上にやってきて場所を確認するなり、隣の建物の屋上に縄を引っ掛けて目的の部屋に向かってダイブした。
 それも、ちょっとブランコで遊びますぐらいのノリで。一度死んだほうがおとなしくなるのではないだろうか。
「それより、一人も逃がすなよ」
 それが、あの小娘――引いて王子の命令。
 なぜここにレラン達がいるのか、それはつい先ほどまでさかのぼる。

「おとり?」
 今回の視察の理由と、王子の行方の簡単な説明を聞いた王子妃の感想はそれだった。
「……そうだ」
 ついでに言うと、隊長は口が裂けても囮と言う言葉は使っていない。
「まぁ手っ取り早いわよね。で、どこなの?」
 この方は、結論しか話さないのかといぶかしんだ。
 しかし、それからの王子妃様の行動は早かった。さくさくっとアジトになっている建物に案内を求めた。――誰も止めない。
「よろしいのですか?」
 道もわからないのに先頭を歩くのは王子妃、その後ろにいる隊長に副隊長が声を掛けた。
「何がよいとでも?」
 振り返った隊長が、怖い。
「いえ――それは」
「小娘! そっちではない」
 唐突に、言葉が遮られた。やはり隊長の目が怖い。
「あそぅ?」
「だいたい、なぜ先頭を歩いている」
「遅いのよ」
「案内をしてもらっているという立場を理解しろ」
「だって、遅いんだもん」
 ふいっと、首を逸らす小娘。その姿だけ見ればいつもとは違う感想を持つだろう。
 だが、それには少々共にいる時間が長すぎた。
「わがままを言うな」
「そう?」
「第一、われらは王子の命なしで動く気はない」
「おとなしくしてろって?」
 それを素直に聞くと思えないんだけど。
「ようは、邪魔だったんでしょ」
 レランの中で、何かが砕けた。
「いい加減でおとなしくしていろ小娘」
「機嫌悪いわね」
「お前のせいだ」
「失礼ね」
 まわりは、冷や汗を流していた。王子が単独で行動に移ったことですら隊長が怒るには十分なのに、それに加えてこの方は……
「いいのよ。後始末は任せられるから行動できる」
「――あれだ」
 角を曲がろうとする腕を捕まえて、角から少しだけ顔をのぞかせる。
 向かい合うように立ち並ぶ建物のこちらより、四番目。
 リールは建物の入り口に目をやって、それから顔を上げて見上げる。上の様子。下の様子。
「何人いるのよ」
「七人は確認済みだ」
 しばらく、リールは考え込んでいる。
「ねぇ」
「……なんだ」
「あの向かいの建物、占拠して」
 そう言ってリールはアジトとされる建物の真向かいを指した。

「何をするかと思えば」
 屋上から突入。突撃。強行突破。
「よろしいのですか?」
「よくない。――が」
「が?」
 小娘(あれ)が入ったことによる変化。簡単なことだ。
 王子がいて小娘が傷つくはずがない。単独で自身の身を省みないよりは、あの小娘を守るために生きるだろう。そのほうが王子の身は安全ではある。
 小娘がいる限り、王子は死なない。自身が多少でも不利になる行動は選ばない。
「まぁいい。行くぞ」
 視界に移った窓の中から、派手な音が聞こえてきた。

「あっけな」
「そうだろうな」
「どういう意味――!」
 ザンッ! と風を切った。二対六は二対三になっている。
「このあま……」
「なんのこと?」
 少しだけ、首を向ける。
「止めておけ、挑発するのは」
 仲間三人を切り捨てられた男たちがうめく。囲まれたリールとカイルは背中合わせで剣を構えた。
 息を乱した様子も、焦る様子もない。だが、相手が多いことに変わりない。
 息を合わせて向かってくる男たち。正面の相手の剣を受け止めて、にらみ合う。長引くと分が悪いのは自分。カイルは一人目の剣を弾き返して、二人目の剣を受け止めている。同時に狙うのに、狙いやすいのはどちらか。
 笑って狙いを変えた男をカイルは視線の端に捕らえたが、別の男が剣を振るう。相手は六人ではない。あと一人。女はどこに行った?
 一瞬の焦りを付かれて頬の横を剣が掠める。
キィン――
「リール!?」
「ギャ!?」
 剣がはじかれる音の次に、肉が切られる音。リールが割れたガラス片を投げつけて切りかかったらしい。
「この女!」
 目に破片が入ることを免れた男が腕を振るう。
 危ない!
「っ!」
 姿勢を低くして逃げるが、室内は狭い。
「消えろ!」
 目の前で剣を振るう男が、邪魔だと言わんばかりにカイルが剣を振るう。が、
「おっとっ! あぶねぇなぁ」
「なっ!?」
 リールの真後ろの壁が、開いた。ざっと、リールが逃げるが、その足は途中で止まる。
 進む先の床に短剣を突きつけられて、リールの足が止まった。――あと三歩。
「まったく、なんなんだよこれは」
 声の感じを見る限り一番年上らしき男は、体中を黒い布で覆い隠しマントを羽織っている。その男の目の前には二人の客。倒れた三人の仲間。剣を持ったまま息の荒い仲間が二人。女は、いない。
「容赦ねえなぁ」
「招かれたのだが?」
 カイルは、剣の血を振って落とした。
「招かれざる客は?」
「私ね」
 リールが、一歩進みながら振り返る。
「失敗したねぇ」
 と言うより、話を聞いていなかった結果だ。もし、あの場でリールに危害を加えなければ、あるいは“二度”は適応されなかったかもしれない。
「わりにあわねぇなぁ」
「何を頼まれた」
「“首”か“権力の一端”と言ったところだ。もしくは、“真実”」
「あいにくだな」
「噂が真実なのか。一個人の興味もあってね」
 一瞬、男の視線がリールに向かった。それをカイルは好ましい物と取らなかった。
(噂?)
 はてと視線を感じたリールは、カイルに目を向ける。
「あなたの――」
「そのためにわざわざ目立つまねをしたのか」
 まるで諭すような声を遮ってカイルが言う。男は笑っていた。
「そうだな。そうであると、考えて間違いはなさそうだな」
 ちっと、カイルが舌打ちをしたのをリールは見逃さなかった。
「どういう」
 こと、とリールが言う前に階下から女性の悲鳴が響いた。それは、先ほど言い寄ってきた女の声。
「イレ!?」
 男が驚いて叫んだ。その振り返った瞬間を逃さなかった。
「まさか、単独だと思ったのか?」
 動いたリールにあわせて近づいて、すれ違う。後ろで動いた男たちを一人ずつ切り捨てた所で振り返った。
「リール!」
 名を呼ぶとすぐに反応する。伸ばされた手をとって男と向かい合う。丁度、レランが部屋に入ってくるところだった。

「で、えーとこれはどういう状況なのでしょうか?」
 呼び出しを喰らって、あわてて飛び起きて、それから。指定された場所にくれば……
「見てわからないの?」
「見てわからないのか」
 いや、むしろわかりたくない。
「後始末が面倒だ、任せた」
「よろしく~」
「え~と、どちらへ?」
「「関係ない」」
「……」
 玉砕、撃沈、二度目。
「仲良きことは美しきだな」
「……そうね」
 そして、二人は歩き去る。呆然と立ち尽くしたセイジュに後ろからレランがポンと手を当てて、追い越していく。
「え~?」
「隊長……」
 がっくりと、残された自分の部下がうめいた。
 今いるのは、破損と破壊のひどい建物の正面、紐で縛られたあげく気絶している女性に、死屍累々とつみあがる男たち。話には聞いていたが、フィーレイトという盗賊団らしい。
 各国の上層部の以来を受け、隠密行動が多く、暗殺なども行なっているらしい。
 全体を率いる物は素性がわかっておらず、いくつかの群に分かれて行動しているらしい。
 それの一端が、今目の前で伸びている。
「……はぁ」
「隊長」
「ぅわ!? なんだよ」
 ため息をついたセイジュの後ろから、まるで呪ってくるかのように低い声。
「どういうことですか?」
「内密に処理して恩売っとけってことだろう?」
 どう処理するかが、問題だ。
「まぁそんなわけなので、無駄な抵抗はやめましょうね」
 そう言って、セイジュは男の一人の背中に足を置いた。まだ息があって、動ける者だ。
「……殺せ」
「残念だけど、いくらこっちが殺したくとも命でない限り無理なもので」
「なんなんだお前!?」
「そう言われても、もう少しうちの王子の性格を知った上で行動に移したほうがよかったんじゃね?」
 ぐ……と男が言葉に詰まった。
「まぁ、その途中でこうなったのなら。自分達の腕の悪さを嘆くしかねぇだろうけどな」

 また朝がやってきて、夜がやってくる。いくつ、日々を越えたのだろう。何も知らなかった時、すべてを知らされた時、一人だった時、独りでなかった時、そしてまた、返る。
 まだ夜が明けていないらしく、隣に人影がある。近くに。すぐそこだといえる。
 眠りが浅かったのか、思考が働かない。ぼんやりと、腕を伸ばした。触れる直前で、止めた腕。ほんの数センチ前で指が伸びない。ぱたりと、落とされた腕。その先。
 首を回して、天井を見つめた。どうやら、しばらくするとそのまま眠ったようだ。

 この習慣が狂ったのはこの国の外にいた時で、この国にいる限り狂わない。日の出の太陽の光に誘われるように目覚めたレランは、迷うこともまどろうこともなく寝台から起き上がった。
 自分のスケジュールは王子の行動に左右されるとは言え、一週間のサイクルは似てくる。
 しいて言うなら仕事が増えた。しかしそれは十数年続けてきたこの城での生活で、慣れている。
 この城の外で王子に振り回されていた時のほうが、はるかに神経が磨り減りそうな出来事が多かった。
 それは健在な所が、時にいらだちの要因となる――
 首を振って頭を切り替えた。まずは、隊の訓練を始めなければ。

 夢の中で、何かが動いたような気がした。目を開けると目の前に見えたのは、こちらに向かって伸ばされた腕。これが原因かと納得する。
 中途半端に伸ばされた腕が、遠い。引き寄せて起こそうかと考えて、よく眠る姿を眺めるだけに留めた。穏やかな寝息に、上下する胸。
 ――生きて、いる。
 時折、心配になることがある。まだ、生きる気があるのかどうか。

 目が覚めた時に、ひとりではない日々が幾度続いたのかもうわからない。ただ静かに、そこにあるものが変わったように感じることがある。
 気づいたら、腕の中。ぼんやりと天井を見つめて、起きあがる。寝台を降りて窓に向かう衣。
 昨日荒らしたカーテンの隙間から、日が射し込んでいる。
 結局水色に落ちついた布地の手触りが、やわらかい。ゆっくりと引くと、まぶしい光に目を細める。
 どこにいても、朝は同じだと。どこにいても、朝がくることを変えられない。
 不便なもので、ひどく小さいものだと感じながらよぎる事がある。
 朝を変える事はできなくとも、この手でしてきたことは多々あるのだと。
 小さい頃、蟻を踏みにじったように、飛ぶ羽をもいだように。
 忘れられない。
 うしろで起きあがる気配がする。名を呼ばれたように思うが、振り返る気はない。向こうもそう重要ではないようで、そのまま。再び寝台に沈んでいる。
 なぜ、あわせて休暇にさせられたのか。今日はノーザイス先生(ろうし)が来るというにと、散々問いつめたのは昨夜。
 ……暴れたりない。だけど、この前窓から飛び込んだ時にはあまりに外野がうるさくなったものだから。しばらくおとなしくしておけと言われた。
 これまで、自分がどうしていた、かよくわからない。こんな時どうしていただろうか。
 生きることに生きていた時は、些細なことは切り捨てて来たと思う。――今は?
 やはりよくわからないが、原因なら、嫌と言うほど知っている。
 カーテンを勢いよく開ききって寝台まで戻る。半分眠っているようだが、かまわずのぞき込むと、腕が伸びてくる。
 ばしっとその手を叩き落として、自分との間に剣を刺すと、さすがに起きあがった。
「……どうした」
「あんたのせいよ」
 唐突に理不尽なことを言っているのは百も承知だが、そういえばいつもそんなことばかり言っている。さして問題ではない。
 しばらく、寝起きの頭で考えていた男――カイルは何か納得したように言う。
「そうだな」
 相変わらず、間には剣が突き刺さっている。羽の入った枕を引き裂いても、カーテンを切り刻んでも、花瓶をたたき壊しても、木彫りを台無しにしても、夜には元に戻っている。
 変化のない日常。篭の鳥は餌を待って気ままに鳴くだけ。そしていつか、飛んでいたことを忘れてしまう。
 そんな安穏には浸れない。
 だけど、時折――
「……」
 カイルが口を開いて閉じてしまった。
「また、逃げようか」
 しばらくして、静かに聞こえたのは、誘いの言葉だった。
 ――ああ、ただ静かに、あの家で時を過ごすことは叶わなかった。
 その代わりだと、言えはしない。言えない。
 まだ、終わってはいない。すべてが。置いてきてしまった。
 自分が生きることにすら興味を持てなかった。必要な人間だったから生かされた。きっかけはそこから。
 ひどい、もので。
 力さえなければ、不必要に生き延びることはなかった。ただ、力のなさを嘆いて死んだだけ。
 ぼんやりと、時間が過ぎた。あまりに静かだったのは、どうやら前触れだったようで。

 何がどうということもないけれど、とりあえずどうしようかしらね。
 思うのは、回りの都合ですべてが台無しになることが気に入らないのよね。
「どういうこと」
「つまり、返上しろということか」
「そのようです」
「ちょっと! 昨日日程の変更をさせられて今日また今になって変わるってどういうことなのよ」
「俺のせいじゃない」
「ほかに誰がいるのよ」
「昨日のことは認めるが、今日は関係ない」
「じゃーなんなのよ」
「そっちに聞け」
 と言って、指差す先。はぁと、もうため息を隠すことのないレラン。
「いえ、国王陛下が」
「お父様が?」
 そう呼ぶと、なぜか不機嫌になる男がひとり、いる。
「なんでもいいから、とにかく謁見室に連れてこいと」

「で、その国王はどこに行った」
 カイルの言葉に、不機嫌であることを隠すことなく頷いた。
 言われるままに(しかたなく)着替えて謁見室にやってきた(アズラル大喜び)。曰く、新作のドレスだ、出かける? それはそれで魅力的だが着飾るほうが楽しい。
 なぜか国王はいない。ついでに王妃も。そして謁見に来た客の相手を……どういうことかしら?
 半眼で振り返ると、申し訳なさそうに頭を下げている男が見えた。
「申し訳ありません。ディルム領主婦人がお倒れになったと言う知らせが届きまして、陛下と王妃様がお見舞いに……」
「だれ?」
「お婆様だ」
 フレアイラ・マリア・ディルムが旧姓だと言う。
「お婆様ぁ?」
 そんなことより、カイル(これ)は今なんて? お婆様って言った?
「そんなに嫌そうな顔をする必要があるか?」
「ある」
 気持ち悪い。ということは、
「孫?」
「そうなるな」
 つまり、あの王妃の母親……。
「……」
「普通の人だぞ」
「ホントに?」
「見た目は」
「そうでしょうね」
 そうじゃなきゃ認めない。いろいろ。
「それで、どっか悪いの?」
「もう歳だからな」
 ああ、そうかと何かが流れた。それが自然。いかに不自然であったか思い出させてくれる。
 自然では適正であるように求められる。大量に発生した生物(もの)が生き続けられないのよ同じように。
 そうやって、数を減らす。増やす。いつしかそれは、変わることなく。だけど、それから外れ続けても、生きているけるとしたら?
 それは自然とは言わない。だからきっと――
「見舞う必要もないだろう。次」
 話を終わらせて、カイルは次の客を呼ばせる。別に私は隣にいるだけで、話に参加することはほぼない。いる意味がわからないが、顔を見せておかなければ余計な噂が流れるとか知らないから。
 正面を向きながら、世辞を送る者たちを適当に見送る。急に騒がしくなったのは、そう、今日はこれで最後だと言われた、その時だった。
「王子」
「どうした」
 部屋に入ってきたのは、久々に見る――
「オークル?」
「お久しぶりです。王子妃様」
 こちらにも礼をとる。そのうしろに何人かの兵士がひざを突いたまま動かない。カイルが言葉をかけた後、オークルは話をはじめる。律儀だ。
「それが侵入者が」
「「侵入者?」」
 言葉は同じだったが、意味合いが異なった。
「はい、大変申し訳ありません。現在捜索中で」

「いたぞー!」
「捕まえろーー!!」
 その時だった、扉の向こうから声が聞こえたのは。騒がしさに、オークルの顔が一瞬引きつった。
「申し訳ありません、様子を」
 そういって彼は、身を翻した。
バン!
「……ふぇっ」
 だけど、それより早く扉は開いて、入ってきたのは――
「リディ~~!」
「……ウィア?」
 いつもローゼに二つに結われる髪はぼさぼさで、緑色の瞳は大きく揺れている。
 一瞬で剣を引き抜いた兵士をカイルが制するのと、段を下るタイミングは同じ。
「ぅわぁ~ん。りでぃ~~!」
 走ってくる姿を抱きとめると、必死に抱きついて、泣き出した。
「あ~ウィア?」
 侵入者って、あなた?
「子供一人構えられなかったのか?」
「あなたが捕まえてくださってかまわなかったんですが」
「お前の仕事の邪魔なんかしねぇよ」
「あなたの仕事でもあるんですけどね」
「だいたい、どこに行っていた」
「はっ!?」
 のこのこ入ってきて感想を述べた男が脱兎のごとく逃げていく。それを長剣を振り回して追いかける姿。そしてオークルは兵を下げるべく指示を出す。カイルは椅子に座りなおした。
「……ウィア?」
 腰に腕を回してしがみつく姿に声をかけた。
「やぁ~もうやなの~」
 意味がわからない。
「あのねぇ。ウィア?」
「や~だ~! やぁ~~~ああ~ん!!」
 だから、何も言っていない。
「やなの。もうやなの! リザインひどいの~どっ……なんっ……ふっ……ふぇっ」
「……」
 面倒だ……
「ウィア?」
「やだぁ! 帰らないの! ……ひっ……やだぁ!」
「いい加減で黙らないと、送り返すわよ?」
 縛って、箱詰め。
「っ! うわぁーーー! リディが怒った~! えぐっやだぁ~やだぁーー! ごめんなさいーぇっ……うわぁーーん!」
「……」
 予想はしていたが、かなりひどい。そこ、あきれ返った目で見ないでくれる。
 よいしょとウィアを抱えあげて、段を上る。玉座の後ろの道を使うことを強制されているのだからしかたない。
「リディ?」
 視界が変わったからかおびえてか、かすれた声でウィアが声をかける。
「送り返さないから、ゆっくりお休み」
「ほんとうに?」
「本当よ」
 そう言って、玉座の後ろの道を進む。その後を謁見を終了させたカイルもついてくる。それはそれとして部屋に帰ることにした。
 部屋と一口に言っても多々ある。ありすぎる。ウィアをつれてきたのはいつもアズラルを通す部屋。王子妃の客室だ。部屋に着くと同時に侍女がお茶を入れて去っていく。話は届いているのか、ウィアの前には暖かいミルクに蜂蜜が入っていた。
 いくぶんか落ちつたウィアの前にそれを置いて隣に座る。こちらとカップを交互に見ていたウィアは泣いている場合じゃないと思ったのか顔を長袖で必死にぬぐう。
「こら、だめ」
 そう言ってハンカチを取り出して渡す。しかし、布地が余ったからと言って、ドレスと同じ生地のハンカチと言うのもおかしい。あの男のことだ、この布も貴重品であるだろうに。もっと惜しめ。
「い~の?」
「どうぞ」
 首を逸らしてこちらを見つめる。それが目の前で湯気を立てるもののことを言っているとわかるから言う。
 両手でカップを持って飲み干している。カイルが斜め前に座ったまま視線を上げたが、さぁと両手を上げた。
 だから、知らない。
 しばらく、ウィアがカップのミルクを飲んでいた。その合間、私は置かれていたお茶にこれでもかと砂糖とミルクを入れていた。一瞬カイルが怪訝な顔をして、ずっとこちらを見ていた。
「飲んだ!」
「はい」
 うれしそうに顔を上げたウィアに、お茶を差し出した。泣きつかれてのどが渇いたのか、ウィアはそのままお茶に口をつける。
 たぶん、ここに侍女がいたら大慌てで新しいミルクを持ってきて私のカップに新しいお茶を注ぐだろうが、今はそんな余計なものはいない。
 ……ティーポットごと置いていけばいいものを。しまった、伝え損ねた。ちっと舌打ちをしそうになるが、押しとどめる。レランが部屋を出たので、たぶん伝わるのだろうが。
「飲んだ!!」
 再び、うれしそうに……嬉しそうよね。言うウィア。
「お菓子もあるわよ」
「うん!」
 フォークを握って、ケーキに突き刺している。小父上がマナーを叩き込んだでしょうけど、意味ないわね。それとも、今はいいと思うのか。
 そう思いながら見ていると、突然はっとしたように動きが止まるウィア。
「どうしたの?」
「言わない?」
「だれに」
「リザインに」
 律儀よね。
「言わないわよ」
 テーブルマナーを無視して城内でケーキを食べたことなんて。
「ぇへ~リディ好き~」
 どきっとして、動きが止まる。かなり動揺した。そんなことを言われると、思わなかった。だって私は、彼女たちを置いて逃げた。――そう、ただの裏切り者。

「驚いたね」
 そう言ったのは、翌日やってきたあの男。こいつが部屋に入ると続いて布地が大量に運ばれてくる。もう少し減らしたらどうなのよ。
「何が」
 もうあきれている。義務的に返事を返した、それだけ。
 なのに、短く息をのむ音。
「……なんなの?」
 疑問に思って、問いかける。
「リーディール……いや」
 一瞬、戸惑うように固まったアズラルは、次の言葉を教えてはくれなかった。だから、私もそう重要視はしていなかった。ウィアの真実を聞くまで。

 朝、驚愕と共に見送ったリーディールが昼のお茶の時間に扉を蹴り開けた。予想はしていただけに、あきれ返る。
 だが今回ばかりは、それこそいつものように声をかけることは、できない。
「知っていたのね」
 息の乱れを感じさせない。怒りと、驚きと、――悲しみにくれた低い声。
「――そうだな」
 知っていたのに! のどまででかかった声を抑えた。それを望んだのは自分だ。だからこそ、だからこそ冷静な声に、いらだつ。
「……わかっているものだと、思っていたが」
 なんの策も練らないのだから、さぞかし非情に見えたことね。
「非情なのはお前でも、彼らでもなかろう」
 だから、いらいらする。
「ふざけてる場合!?」
「リーディール、八つ当たりはやめてくれないか」
「うるさいわ!」
 だって、そんな、まさか――
「どれだけ、存在に価値を求められているか知っているだろう」
 エアリアス家が。
「どうしてくれるのよ!!?」
 もう、何も見ていない。机に叩きつけられた手が、上げた悲鳴は心と重なった。

「リディ? ……りでぃ~……」
 少女が、廊下を歩いていた。結わえられた二つの髪が揺れる。
「ふっ……っぇ」
 ずるずると右手に引きずられているのは耳の長い動物のぬいぐるみ。まずリールの趣味ではないが用意するのは簡単すぎる。
 アンダーニーファは左手で顔を拭いながら、たくさんの光を取り入れるように作られた廊下を進む。
「りでぃ~~……」
 泣き声が響くか、呼び声が響くかの違い。
 やっぱり、いけなかったのだろうか。誰も、あの家の誰も彼女のことは言わなかった。話をしようとしなかった。アロマでさえ、言葉にすると注意された。
 それでもここにきて、なぜかと聞かれて。それから、それから――
「………ふっ」
 行かないで、おいてかないでぇ……

「あの~隊長?」
「あ~~~あ?」
「起きて下さい」
「どぎょ!?」
「いいんですか!?」
「いいわけないだろう!」
「どうするんですか!」
「下手に刺激してとばっちりは食らいたくないんだよ!?」
「どこの猛獣ですか!?」
 うちの王子妃は!?
「どっちが猛獣なんだ……?」
 あの夫婦は。
「寿命を縮めるのが趣味なのはわかりましたから、先に進みましょう」
「誰の趣味だ?」
「隊長に決まっています」
「おい」

 本当は、なんとなく知っていたこと。都合の悪いことは全部、リディに向かっていたこと。外に出るのはリディで、みんな、中にいたこと。不思議に思ってもそれを言っちゃいけないって言われた。
 だから、今回も。でも……
「だって、だって~……もぅやだよぉ……やだぁーーー!」
 おいてかないで! 何度でもあやまるからぁ。
 どこに行ったの? ひとりにしないで。ここは、人がいないから、だから嫌(や)。人がいっぱい来るのも嫌。
「ぅわーーー……ひゅっ!?」
 ぼすっと、何かにぶつかった。あわててしがみ付くのにちょうどいい太さだったので、両手を伸ばした。
 がしっとしがみ付いたのは真っ黒い布で、たぶん足だったのだろう。小さい自分は、何もかも見上げないと見えない。

 恐る恐るといったように、少女が顔を上げる。あの時ぼろぼろになっていた髪は再び二つに結わえてある。
 必死にしがみ付いてくるので、振り払うわけにもいかず、そのまま目が合えば――
「ぅわあーーーん」
「……なぜ泣く?」
 さらにひどくなったのは、なぜだ?

 ここには、ウィアを知る人はいないけど、ウィアの知る人はほとんどいなかった。だから、顔見知りを見て安心したんでしょう。あとになって小娘は言った。

 背後の影が固まったまま、泣きつく娘をそのままにしていると、向かう先にいるはずの主がやってきた。かなり不機嫌だ。
「レラン……何面白いものをくっ付けている」
 遅いと、言葉は続くはずだった。
「王子、笑わないで下さい」
 本人は必死に泣いているのですから。
「アンダーニーファ?」
 ひょいとしゃがみこんで、王子は娘の顔を覗き込む。先ほどからか細い声で泣いていた娘は、聞き覚えがあるらしい声に顔を上げた。
「――お兄さん?」
「義兄さんだな」
 そこは、たぶん理解していないのでは?
 案の定、娘は深い意味は理解していなかった。
「……ふっ」
 また泣き出しそうだ。
「……リールはどうした?」
「りでぃ……ぅ……」
 だから、なぜ泣く。
「どこに行ったんだ? 保護者(リール)は?」
「リディ……おこったの」
「は?」
 リールが、お前にか?
 信じられないらしく、王子は娘を凝視している。
「まだ箱詰めにされそうになったと言えば真実味があるぞ」
「だって……だってぇ……」
「あ~よしよし、とりあえず話を聞こう。リールはどこだ?」
 娘の頭を撫でながら、王子は振り返る。あの小娘の行き場所といえば……たぶん……
「……やぁ」
「大丈夫だ、義兄さんも一緒に行ってやるから」
 そう言って、王子は娘の顔を覗き込んだ。
「……ほんと?」
「ああ」

「落ち着かないか」
「落ち着きたいわよ!」
「リーディール様、一度も腰を落ち着けておりません。よろしければ椅子を――」
「それどころだとでも言うの!!?」
「八つ当たりは止めろと言ってる」
「わかっているわよ!」

「……?」
「りでぃ……おこった」
 たぶん客室(最近ではほぼあの男の私室と化している仮衣装部屋)にいるだろうと思えば部屋の外にまで聞こえてくる怒鳴り声。……確かに、
「機嫌が悪いな」
 朝まではそう悪いということもなかったのだが。
「……ぇっ……」
「大丈夫だ」
 進むはじめに伸ばした手に力が加わった。子供ながら、怖いのだろう。

「リール、いったい庇護者を放って何をしている」
 ノックもそこそこに部屋の中に入れば、派手な音と共に陶器の紅茶用具が床に叩きつけられていた。
 突然の来訪者と、ひっくり返された陶器類。しばらく、部屋の中の時間が止まったかのような気持ちを味わった。
 苦々しい顔をしたままのリーディールは舌打ちをしそうな勢いで扉を振り返った。
「なに――っ」
 その押さえ切れない苛立ちの固まりも、小さな手を引かれたアンダーニーファに目が向いて行き場を失う。
「こんな所で、ひとりにする気だったのか?」
 リーディールが言葉を失うには、十分だった。
 泣いていたのだろう、そしてまだ泣けるのだろう。大きな目を見開いたまま怯えたようにさらに小さくなるあの子は……
「ウィア……」
 リーディールの言葉も、呟きに消え行くようだった。
「りでぃ」
 対して、泣いていたことがわかるほどかすれているのに、はっきりとした声だった。
「リディ~~!」
 手を振り払って、ぱたぱたと走る音。ぼふっと突進してきたウィアに視線を合わせるように腰をかがめると首に小さな腕が回ってきた。
 あの昔、この小さい手だった頃私は、ひとりで――
「ごめんなさい、ウィア」
「……ぇっ……っ……」
 もう、言葉にならないのか。しばらく、ウィアは泣き続けた。
「……ひっ……おこらないの?」
「? どうして?」
「だって……りざぃ……」
「ザインなら黙らせるわ」
 抱きしめられていた娘には見えなかっただろうが、その時の小娘の顔はほほが引きつるか兵士が怯えるくらい黒いものだった。

 その時、リールとアンダーニーファとの会話の内容を知っていたのはアズラルしかいなかった。

「シャフィアラに行くわ」
 バンと扉を開けて入ってきて、一言目。
「そうか」
 その言葉に、少しだけ意外だというようにリールは目を見開いた。どうせ止めたところで行くのだから、余計なことは言わない。アンダーニーファとお前の間に、なにがあったのかは知らない。言わないのだから。そして、“帰る”のではない“行く”のだから。
「なら船を用意しよう」
「別にいらないわよ?」
 呼びつけることは可能だ。
「たまには動かさ(つかってやら)ないと、かわいそうだろう?」
 暇すぎて暇を持て余らしているのだから。

 持って行くものも必要なものも、そうない。心得たようにカイルの行動も迅速だった。
 ただひとつ、面倒に感じたのは……

「あら? もう帰ってしまうの? うちの息子のなにが悪かったのかしら」
「フレア、あれに嫁が来ただけでもよい方向に取らなくては」
「まぁ陛下、わたくしの玩具(おもちゃ)が減ってしまいますわ!?」
「一応言っておくが、そういうことは本人の前で言うな。用が済めば帰ってくるのだろう」
「ぇえ、まぁ……」
 そういうことに、なるのか。

 馬車で連れて行かれた港。そこで待っていたのは……
「お久しぶりです、王子様、王子妃様」
 どこかで見たことあると思えば、エルンが沈んだあとエルディスにくるために乗った船の船長。
 改めて紹介されて見れば、海に囲まれたエルディスの海軍の長だというのだから、驚いた。
「ちょっと」
 がしっとカイルの腕を引っ張って距離を取った。心得ているのか、誰もついてこない。レラン以外は。
 声を潜めれば届かないくらいの場所まできて、リールは押さえた怒り声で言った。
「なんで位の高いのを連れて来るのよ!?」
「そのほうが安全だから」
「はぁ?」
 なんの話だとリールは首を傾げた。
「一年だ」
 唐突に言ったので、驚いたように聞き返す。
「は?」
 意味がわからないと、こちらを見た瞳が言っていた。だから、人目もはばからず引き寄せて耳に口を寄せた。
「それ以上は待っていられない」
 共に行くことはできないから、せめて一番安心できるものをつける。特に、あの島は……
 しばらく、唖然としていたリールは、しばらくするとわれに返った。
「……押しかけて来ないでよ」
「さぁ? お前しだいだな」
「……。ウィアをお願いね」
 聞き流すことにしたらしい。
「……ああ。――レラン、頼んだぞ」
「かなり不本意なのですが」
「なぜだ?」
 久しく不満も言ってなかったな。
「なぜこのようなことに……小娘」
「人のせいにしないでくれる。大体、あんた、私の命令聞くのよね?」
「聞くんだな」
 とどめの一言を聞いてしまったレランは、ため息をついた。
 リールは一歩進み出て、振り返る。
「お願いね」
 ウィア(あの子)を。
 カイルは、答えることはなく再びリールを引き寄せた。いい加減人目があると言いたいのだが――不満を持ったまま目を閉じた。
 重なったものは触れるだけに留まらず深さを増す――しばらくして、いい加減にしろと足先を踏みつけた。
「――っ!? ……リール」
 とがめるような言葉と視線は無視だ。
 一度ため息をついたらしいカイルが目を向ける。なにと首を傾げていると、その手がほほに伸びてくる。一瞬、油断した。
 ちくりと痛みを感じた。首筋に噛み付かれている。――ってあんた。
 きつく吸われて、それはすぐに離れたが――そのあとがどうなったのか考えるのはやめておいた。
 どうしようか、思案する間を与えてしまったのが、一番いけなかったのだと思う。
「しまった、一発殴っとくんだった」
 船に乗り込んだ王子妃の第一声がそれであったことに、乗り込んだ兵士達と侍女達は冷や汗を流したとか。

 離れていく船を見つめる視線は遠く、まるでその先の場所を見つめているようだった。
「ようやく、か」
「何か知っているんですか?」
 聞きとがめたセイジュが問いかける。
「……お前も、聞いたことぐらいあるだろう」
「まぁそりゃ」
 でも、あの王子妃(ひと)は当事者じゃないんですか?
「知らなかったのさ」
 面白いくらいに。
「どうしてですかね」
「知りたくなかったのだろう」
 いつも、自分の位置を嘆くくらいの心は持ち合わせていたのに、あの島の出来事は知らない。
「もしかしたら、他意かも知れないな」
「誰のですか?」
「……人かどうか、怪しいがな」

帰郷編